星の動く音がうるさい

2016年からニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどいな

安っぽい記事で、自分のバカ度を公開しておく意味

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批評系のブログの場合、毎日何個も記事を書くよりも、時間をかけて一つの記事を書くほうがいいと言われる。
毎日記事を書いていると、書くことに時間がとられるせいで、本を読む時間が減ってしまうし、「あ、これ以上考えると深みにハマる」というところで深入りする時間がなくなるので、記事の内容が薄くなる。

かといって何ヶ月もかけて、渾身の記事を作ろうとすると失敗する。
渾身の論文を書こうとしたせいで、5年間に1本も論文を書けなかった教授がいて、それに対して内田樹がこう言った。

ちょっとしたきっかけで渾身の論文が中断し、周囲の期待が高かったし、本人の自負もあり、中途半端なものでお茶を濁すわけにはいかない、というので、ごりごり勉強しているうちに、批評眼が冴えて、自分の文章の完成度の低さを許せなくなり、書いては破りしているうちに、そのテーマの「旬」が過ぎてしまって、公開できなくなる。定期的に、頭の中身を満天下にさらせ。大いなる暗闇は要らない。真実含有率を示せ。

毎日とは言わないまでも、ある時点でまとまりをつけて、自分のバカ度を公開しておかないと、書いては破りしているうちに、「旬」が失われてしまう。
作品を完成させてはいけない。

ただし、「長編の」文学作品だけは、村上春樹みたいに、どんなに苦しくても毎日きっかり10枚書いて、総力戦で完成させないといけない。
論文の場合は、章ごとに独立しているから切り離したり、全体として圧縮したりして、途中でもまとめられる余地があるけど、長編小説の場合は、人工的に切るのが難しい。
そこで村上春樹は、長編に取り組む前に、短編を何個も書いたり、日本から離れたり、自分の中に「スペース」があるか確認したり、生活サイクルの決まったパターンに自分を追い込んだりして、色んな準備をして、やっと長編に取り掛かる。
この準備がおわらずに取り掛かってしまうと、長編小説は完成できない。

実験的な短編で、バカ度を公開すること。

偽りのない素朴なエッセイで、バカ度を公開すること。

全部あとになって効いて来る。

 

表現しただけが値打ちになる。嘲られたとしても、表現しただけがその人のまぎれもない人生になる。
論文も、短編小説も、批評も、日記も、バカ度を公開することでしか、できない表現がある。

『職業としての小説家』p.137-142参照

『街場の大学論』p.117-121参照

詩の表現技法を取り入れる

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詩の表現は、凝り固まっていた自分の文体をほぐしてくれる。
文章表現のこつが詩につまってる。
1文字たりとも無駄がないから好き。

最果タヒの詩の好きな高校生をtwitterでフォローしてるんだけど、この詩を音読してるのを聞いて、私も詩集を買った。

きみをだいじにおもうこと
欲望がきちんとぼくにあること
生きていること 血が、洋服につくこと
きみはすべてが汚いと涙する
夜が落ちてきて きみの涙に光をためて
ぼくがそれだけを見つめ ねむること
ずっと泣いていてほしい
失望してやっと、きみは美しくなる

語尾を「こと」にするだけで、こんなに軽やかに言いたいことを言えるんだなって思った。
今までは、前後の文章をいちいち論理的に繋げるために、書いたり消したりを繰り返してきたけど、「こと」をつけて並列するだけで、説明責任が無効になる。
だからもう言いたい放題。
しかも、全部「こと」で終わるんじゃなくて、ところどころ別の語尾にしたりして、その混ぜ方が絶妙。
詩の内容よりも、この表現技法にハッとした。

この一ヶ月、ずっとこの表現を使ってた。
無理やりまとめようとせずに、「こと」でまとめて、すぐに次に行くようにしてると、説明の煩わしさから解放されて、思いがけず広いところに出る気がする。

この詩も好き。

わたしをすきなひとが、わたしの関係のないところで、わたしのことをすきなまんまで、わたし以外のだれかにしあわせにしてもらえたらいいのに。わたしのことをすきなまんまで。

詩はC言語と同じだと思う。
セミコロンが1つ欠けただけでもコンパイルできないくらい、プログラムの文字列には無駄がない。
詩も同じ。
1文字欠けただけでも詩が死ぬ。

 

最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』p.8,p51参照

気持ちが盛り上がっているときの文体

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この前の記事に、コメントをもらった。

気持ちを文章で表すのは、本当に難しいですね…

 

自由に文章を書くのもなかなか難しい。

 
同感同感。

私の場合、思いつめているときは、自分を厳しく突き放すような感じで書かないと、全然気持ちが表現できなくなる。
リラックスしているときは、隣の人に話しかけるような感じで書かないと、気持ちが乗らない。

そうやって何度も書き直したり、切り貼りしたりしているうちに、人工的な感じが出る。
後から見返すと「ここの部分、頑張って書いちゃってるんだろうな」と、すかした顔が透けて見えてきて、恥ずかしくて見れない。
特に書いてる最中に、「ちょっとこの表現は臭いかな」って自分でちゃんと違和感を感じてるところでも、脳の表面をその印象がさっと過ぎ去るだけで、いつのまにか「これくらい大丈夫だよな」って放置してるので、そういうツケは絶対に回ってきて、2日経って見てみれば例外なく腐ってる。
後から見たときに、「あーこれは違和感感じたところだったよなあ、バカだなあ私」と思って、うんざりする。

抑制的な文体で書けば後悔しない。
でも私は抑制する技術がまだ未熟なせいで、「ああこれ以上抑制すると、あんまり抽象化しすぎてしまって、情報量0だな、感情がぜんぶ乗ってないな」と思って、何もできなくなる。

だから最近は、ある程度までは抑制するけど、あとはもうぼちぼちやっていこう、って感じで書く。

いきなり文章が激しくなったり、和らいだりするのは、不安定な感じを与える。
でも、そういう自分の思い通りにならないものによって、自分の輪郭を揺さぶられるのも、いいかなーって思う。
言葉を1文字発してる時点ですでに方向が決められてるんだから、いくら削ったり抑制したところで、限界がある。今まで、引き算でやってきてダメだったのなら、今度は反対に、自分を裏切ってくるものも中に入れて、その動きがちゃんと感じられるところに置いて、文体を根本的に変えていかないといけないと思った。

新聞記者の辰濃和男という人が言ってたけど、心の奥底にあったものが恐ろしい勢いで吹き出てくるときに、それを書き続けることが文章修業になると言ってた。書きたくて書きたくて、ただもう言葉があふれてくる、というときに、そのまま書く。文章を削ったり抑制することだけでなくて、そういう自分ではどうにもならないものに振り回されることも文章修業。

深夜のニューヨークのビルの一室で、毎晩毎晩、あとからあとから湧いてくる言葉をテレックスに打ち続けたというような経験は、あのときのほかはありません。あの時のテレックスのテープを捨てずに取っておいたらと思うのですが、残っていたら、とても恥ずかしくて読みつづけることはできなかったでしょう。あれはしかし、まぎれもなく、またとない文章修業の場でした。
心に浮かぶ雑感を書き、すぐに捨てる。影も形も残さない。テレックスのテープをゴミ箱に捨てながら、「伝える」というコミュニケーションを抜きにした文章に、なにやらいさぎよさを感じたのも事実でした。
(p.58)

 辰濃和男『文章のみがき方』参照