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星の動く音がうるさい

2016年からニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどいな

迷ったら削る

 

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同じ文章を何度も読み返して響きを確かめたり、言葉の順番を入れ替えたり、些細な表現を変更したり、そういう「とんかち仕事」が僕は根っから好きなのです。ゲラが真っ黒になり、机に並べた十本ほどのHBの鉛筆がどんどん短くなっていくのを目にすることに、大きな喜びを感じます。なぜかはわからないけれど、僕にとってはそういうことが面白くてしょうがないのです。いつまでやっていてもちっとも飽きません。
村上春樹『職業としての小説家』p.153

 

村上春樹は長編小説を書くとき、5回以上も、 「とんかち仕事」をするんだって。
1回目の「とんかち仕事」は、2ヶ月かけて頭からごりごりと書き直して、食い違った箇所をひとつひとつ調整したり、大量の文章を削る作業。
1週間後さらに2回目の書き直し作業に入って、風景描写を細かく書き込んだり、会話の調子を整える。
それからまた一服して、今度は文章のねじを「緩ませる」部分を見定めていく、というように、それぞれの見直しのレベルでやることを変える。

このコンビネーションのもっていき方も面白いけど、でもここで一番根本的なのは、削ること。
削ることによって初めて、文章の主題が見えてくると思う。

1文字でも多く削ろうとすればするほど、なかなか削れない部分が際立つ。

それが自分にとって大切なところ。

大切な部分をいっそう際立たせるために、他の部分をさらに厳しく削ると、大理石から女性が彫りだされていくように、主題が見えてくる。

この主題だけは伝えたいっていう文章になるから、訴求力が違ってくると思う。

なのに、私の場合、何時間もかけて作り上げた一行には価値を感じてしまって、削るかどうか迷ってしまう。

そういうときは太宰先生。

文章の中の、ここの箇所は切り捨てたらよいものか、それとも、このままのほうがよいものか、途方にくれた場合には、必ずその箇所を切り捨てなければいけない。いわんや、その箇所に何か書き加えるなど、もってのほかというべきであろう。
太宰治

 迷ったら削る。

「いやいや、わざわざ切り捨てなくたって、余分な情報だとしても書いておいたほうが、読者のためにもなるだろう」と思ったとき、もう削れなくなる。

最近思ったのは、作曲家はたった1つの音符でも、それを捨てるかどうか考えているのに、なぜ文章家だけは1文字が無罪だと思えるんだろうと思った。

数行が無駄になってしまうのはもったいないことだけど、かなりの時間を費やした文章を思い切ってザックリ削ったときは、一周回って、一種の快感を感じる自分がいる。

最後に、かなりいいことを村上春樹が言ってる。

僕の敬愛する作家、レイモンド・カーヴァーもそういう「とんかち仕事」が好きな作家の一人でした。彼は他の作家の言葉を引用するかたちで、こう書いています。「ひとつの短編小説を書いて、それをじっくりと読み直し、コンマをいくつか取り去り、それからもう一度読み直して、前と同じ場所にまたコンマを置くとき、その短編小説が完成したことを私は知るのだ」と。
その気持ちは僕にもとてもよくわかります。同じようなことを、僕自身何度も経験しているからです。このあたりが限度だ。これ以上書き直すと、かえってまずいことになるかもしれない、という微妙なポイントがあります。彼はコンマの出し入れを例にとって、そのポイントを的確に示唆しているわけです。(p.154)

そうそう!!!!さすが村上春樹!って思った。
これ以上削りすぎると、文章全てが崩壊していくようなポイントがあって、そこで引き返すかどうか悩む。
私だけじゃなかったんだ。

削るだけなのに奥が深い。
削りすぎると、文章が崩壊してしまうし、あふれ出してくるパッションも書けないし、時間もかかる。
かといって削らないままでいると、思い上がって言い過ぎている部分や、感傷にひたっている部分が残ってしまう。

削る作業をするには「いったん書き切ること」が私は大切だと思う。書いている途中でいちいち行ったり来たりしてると、全体の一貫したリズムが滞るので、いったん書き切ったあと、大ナタで刈る。一撃で。一番デカイ矛盾を切る。
村上春樹はトンカチだけど、私は大ナタで切る。

 

 村上春樹『職業としての小説家』参照

辰濃 和男『文章のみがき方』参照

抑制した文体が、凄まじい効果を与える

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壮絶な体験なのに、感情を抑えて抑えて書かれると、痛烈に伝わる。

感情を消すことで、感情が伝わるのはなぜか。

 

それは感情がないと、景色しか残らないから。

出来事をじかに経験できる。

生の風景をそのまま見ることになるので、もはや筆者の感情のことなんか気にする必要はなくて、自分がそのままの出来事を感じて、勝手に自分でつらくなる。

特に、筆者が苦しんで傷ついて、無残に打ちやられているようなときに、それが何の思い入れもなく描写されたときは、凄まじい効果が出る。

 

ヘミングウェイの『老人と海』の文体について調べたことがあって、あの小説からは形容詞が追放されている。装飾はうんざりなので、形容詞に用はない。形容詞は事物の周りに靄みたいにまとわりついて、輪郭をぼやけさせるので、情緒的な雰囲気を伝えるにはいいけど、正確に事物の有り様を見ようとするときには、妨げになってくる。
綱ですりきれた手に、海の塩がしみこんで痛む様子とか、それでもなお綱を引いてカジキを釣ろうとする老人の孤独な闘いが、形容詞によって大げさに盛り立てられることなく、動詞の行動性と、名詞の固体性を中心にして、実直に描写される。
文章を最後の最後まで抑えつづけた忍耐によって、ラストシーンに物語の全ての効果を集中させてくる。

 

抑制するといったら、引いて引いて、引き算の考えのように見えるけど、対象の核心を絞り込むので、むしろ伝えたい内容が何倍にも膨らんでくる。
抑制した文体に磨き上げる過程では、文章に残す部分と残さない部分への選択と集中が必要になる。休み無い決断の連続で、自分につきすぎず、離れすぎず、きわめて冷静にあたる習練が積まれて、対象への凝視がきいてくる。それで対象の中心を把握できる。

情報量が減るだけ減って、もうそれがなければ成り立たないようなギリギリの言葉だけが残る。ほとんど詩に近い。

 

石垣りんの『崖』は、抑制がきいている。

戦争の終り、
サイパン島の崖の上から
次々に身を投げた女たち。


美徳やら義理やら体裁やら
何やら。
火だの男だのに追いつめられて。


とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場所。
(崖はいつも女をまっさかさまにする)


それがねえ
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに
どうしたんだろう。
あの、
女。

 


『私の目にはじめてあふれる野獣の涙』p.64-65

今でも海に自殺し続けている女性。
それをウワサ話のように「それがねえ」などと部外者の極地で、悲嘆を抑制して表現しているので、感傷的な顔が透けて見えない。
もしここで、「それがなんと、まだ一人もとどかないのだ!」と、あからさまに悲しみを表現されていたら、興ざめになる。

 

 

『私の目にはじめてあふれる野獣の涙』参照

 老人と海』参照

批評系ブロガーになれない無力感

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私は、頻繁に文章を書けない。

 

批評系ブロガーは、一週間に一回程度の更新は、余裕でできる人が多い。

研究者は、何年もかけて長大な論文を書く一方で、そのあいだに短い論文を何本も書くという。

村上春樹は、長編小説を書く時期はそれだけに集中して、その後に、短編を書いたり、エッセイを書く。
「短編を書くことで、思い切った実験を行うことができるし、長編小説でうまくカバーしきれない細部を、小回りをきかしてカバーできる」と言っていた。
短編が長編に膨張したり(海辺のカフカ)、短編が材料になって長編が構成されることもあるという(蛍という短編を材料に、ノルウェイの森ができた)。

大学生も、頻繁に文章を書く。大学のゼミのとき下級生の子が「ぼくは日頃レジュメを何個も作っていて、後はそれを組み合わせて論文をつくってます」って教えてくれた。そのあとに、論文の優秀賞をとっていた。

全員、短い文章を栄養にしている。

それと同じように私も、「小さくて基礎的な体力仕事」みたいなことをしたい気持ちがあって、この5月は毎日ブログを書いてきた。
特に、何かを批評したり、本を参照しながら何か書きたいという気持ちが強かったので、書くことは決まってなかったけど「とりあえず走っているうちに、コツをつかめてくるだろう」と書き始めた。
どうせいつまで経っても、うじうじして書かないんだから、今はレールに自分を乗せることが先決だと思った。

そしてちょうど半月経ったとき、「どうしても書けない」とわかって愕然とした。
私の力量では、毎日批評を書くなどというのは身の程知らずなことだと、身体を通してバカな頭にようやくわかった。
それがわかって5月後半からは、急旋回して書く内容を変えた。

始める前は、批評できる自信はないけど「そうはいっても」何かしら書けるだろうと思っていた。
そうして何日も何日も、刺激的なニュースを前にして、「よし書こう」と何度も思ったけど、論評できることは何もなかった。
例えば今はアイドルの殺傷事件で、関係性の「商品化」ということで議論が起きているけど、「商品といったらマルクスだよなあ」と思って、これを勉強してないばっかりにピンと来るものが何もない。
この世界の矛盾を集中して受けているような人を救える論理は、自分の中からは出てこない。

かろうじて、憲法9条と、五輪のエンブレムの記事で、社会現象に言及できたけど、それは本の内容をドカンと載せただけ。
暗記用に要約してるだけだから、自分のICレコーダにふきこんでるだけでいいなと思った。
それを公開するにしても、要約に時間がかかりすぎるので、一ヶ月に一回が限界。
一週間に一回のペースで、批評してる人達は、頭の中どうなってるのかなと思う。

もっと爽やかに、本の一文に感想を与えたり、哲学事典の単語を自分なりに説明したりすれば、持続できるかもしれないけど、「うーん、私はそういうのしたいわけじゃない」って感じる。

道が遠すぎる。どういう形態であれば、短い文章を刻めるのかぐらい、自分の心にぴったりわかりたい。