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星の動く音がうるさい

2016年からニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどいな

現実が夢でないことを証明せよ

哲学論争テーマ

今朝、twitterで見た。

上智大学(大学院?)の哲学科の入試問題で、「現実が夢でないことを証明せよ」という問題が出たみたい。

 

夢は、操作できない。
夢のなかにいるときは、「今、夢にいるな」って覚知できないし、思い通りに作りかえたりできない。
あーこれ夢だなってわかるような浅い夢は例外で、ここで問われてるのは深い夢のことだと思う。

だから、もし問いの出し方が、ほんとうにこの一文なのだとしたら、浅い夢と深い夢を、まず分けないといけないかな。

 

深い夢はこわい。

どうあがいても、夢なのに現実だと思ってしまう。

深く深く、そう感じる。

 

知覚像の問題かな、と思った。

 

デカルト以降の身心二元論者だと、客観的実在が、まず外にある。
そこから光の波長なり、アンモニア分子なりの刺激が、自分の感覚器官に伝来してくる。
それを目で受け取ったあとに、目の神経回路からの化学過程が脳みそまで空間的に連続して、一定の脳状態を引き起こす。
そうすると、その事物についての知覚像が生じる。
例えばリンゴだと、赤の波長が目に入って、それでリンゴの知覚像が出る。
ただし、目には入っているのに意識を集中させてないから見えなかった、というウッカリミスがあるように、リンゴを覚識するには、知覚像を意識的に集中して見るという意識作用がいる。
つまり、意識の対象としての、客観的事物が外にあって、それに対して知覚像という意識内容が生じて、その意識内容から意味理解を得るという意識作用がある、この3つの「意識対象、意識内容、意識作用」という三項図式のカメラモデルが知覚因果論に前提されている。

 

そうすると、ここで問題になるのは、知覚像は、客観的実在相の事物と、空間的・時間的関係をもたない、ということが問題になる。
例えば、夢を見るときには、自分は布団の上に寝てるのに、夢の中では、林のインド象に乗ってたりしているけど、この夢のなかの林の自分と、現実の布団の自分とは、空間的に位置が違う。客観的実在相の布団にいる自分と、知覚的仮現相の林にいる自分は、空間的に関係ない。

 

こういう知覚像というものを前提する限り、実際に現実に起きていないことでも、知覚像を現出させさえすれば、現実にそれが起きていると思い込ませることができる。

 

そういうズレにつけこんで、この上智大学の問題のように、ただ知覚像を操作しさえすれば現実になるんだということで、現実というのは、脳みその入力と出力の刺激が全て制御された培養液の中の脳状態の知覚映像かもしれないし、胡蝶の夢であるかもしれないし、マトリックス状態であるかもしれないし、高次元空間に存在する高度な知性を持ったハツカネズミたちの作ったスーパーコンピュータが弾き出した42という数字の3次元空間への射影であるかもしれないと、言ってのけることができるのかな。

 

だとしたら、もしこの問題に答えるんだとしたら、問題の背景にある伝統的な身心二元論の認識構制と、その構制内部の結像機構に生じる知覚像の欠点を言う。
そのあとは、どうすればいいんだろう。
夢は現実の投影だと証明するのはフロイトによればすぐにできるのに、反対は難しい。

 

こういう哲学主要論争テーマが出たときに、全く、答えられないのがくやしい。
できれば1年以内に、こういう問題群については、自分なりに整理して、「哲学主要論争テーマ」タブをつくって、まとめたい。
それまでの、乱雑な思考過程については、ブログにのせようかどうしようかな。

 

関係ないけど、村上春樹は夢を見ないらしい。

 

村上春樹は、長編を書く前に、短編をたくさん書く。その過程で、短編がどんどん膨らんで長編になることもあるし(海辺のカフカがそうだったかな)、短編が材料になって長編ができることがある(蛍?という短編を材料に、ノルウェイの森ができた)。

そんな風に、小さなところから、軽快に動かしておくのは、本腰を入れたりしない限りは、よさそうだなと思った。

言い表せないものを、言い表せないものとして、気楽に取り扱える。

 

知覚像の記述は、新哲学入門の認識論を参考にした。

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