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星の動く音がうるさい

2016年からニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどいな

神はあふれているか

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神は満ちている。

神のうち小さいものは小さい器に、大きいものは大きい器に、満ちている。
しかし神は、器に容れられない。
神は全体であり、何ものも、全体を容れることはできないから。

 

アウグスティヌスの告白に、そう書かれてた気がする。
この1ページしか読んだことないんだけど、ふしぎと何回も読みたくなって、よく本棚から出していた。
21歳のときに。
何を言おうとしてるのか、とうとうわからなかったけど。

 

神のように、なみなみこの世界に満ちていて、事物にも浸透していたら、事物の存在を「ただちに」覚知することができると思う。

 

現実が夢でないことを証明せよ、というときに、見る主体と、見られる客体とを分ける主客二元論の機制においては、何かを見て覚知しようとするときに、知覚像がまず結像して、そこから覚知するという二段階方式のカメラモデルが働くので、現実を「直接」覚知することはできないというのが問題だった(素朴実在論は別だけど)ので、その因果のズレにつけこんで、知覚像をすり変えたり、脳状態を操作したりして、夢を操作してくる外部のものがどうしても出てくるので、現実は何かによって見せられている夢であると主張することができてしまうと、一昨日の記事に書いたけど、事物に染みこんでいる神の概念のように、何か、主客未分離の運動の当体のような同一のもの(もの、と言ってしまったら実体的な固い事物を前提しているように思えるけど、素粒子のような、非実体的な事態をも含めた第一次的な現相)がもっとも原始的な場面に、虹のように広がっているんだと想定してみると、主体の視空間と、客体の物理空間というのは、主客未分離の同一なものの二つの見え方にすぎないので、物理空間に存在する客体は「ただちに」心的空間の主体に覚知されているという密着状態であり、覚知すなわち存在であり(素粒子が観測によって動きを変えるように、知ると同時に存在し)、いわば、物的存在と心的存在とが「二重写し」に存在していて、その意味では、視空間と物理空間は同一であり、夢は物的存在ではないが物理空間に存在し、夢すら現実であるといえる。

 

水槽の中の脳の見る夢は、それも現実だからそれでいいということになってしまう。
麻薬中毒者の見る幻覚は、本人にとっては現実であり、周囲の観測者にとっては非現実のように見えているけど、ここまでくれば、周囲の観測者からも、彼の幻覚は現実であると言える。
没規範的で、何の示唆も与えないなあ。

 

そうして、「現実が夢でないことを証明せよ」という問いは、「現実が現実でないことを証明せよ」という問いであることが判明したので、問題文の問いの立て方自体が間違っているんだという、書くのが恥ずかしい強引な手筋で、認識論と存在論の全体構造の方向性を定めた。
ここまでくると、現実が夢であると認める証明にもなってる。

 

三島由紀夫の最後の四部作が、ずっと脳裏にあった。
いつもは、夢がどうとかいう、遠い問題については、何も考えずに通り過ぎてしまうけど、三島由紀夫のあの本を読んだときの印象が、ぐっと読みかえってきて、一度納得できるような程度のところまで、できるだけ近づいてみたいと思った。

しかしやはり、自分の頭を使用するだけでは限界がありすぎる。

 

読書が足りないな。

でも、今の手札で、考えるのも大切だと思う。

 

そういえば、論文作成の、定石が最近わかった。
多くの論文で、最も引用されているような有名な「基本文献」を読んで、疑問に思った点をいったん「自分の頭を使用して」考える時間をつくるのがいいらしい。
東北大学の教授がブログに書いてた。

 

思想を建設するのにも、これでいける気がするな。
夏目漱石は、文章がうまくなるには、思想と素直さだと、言ってた。
さらに彼は、思想は、文章を素直にさえ書いていたら自然とついてくるとも言ってたから、基本文献なんて読まなくてもいいことになる。

 

でも私は、独自の思想はいらないから、オーソドックスな理論を身につけたい。
オーソドックスなのに、論理的に展開していくと驚愕すべき非常識な結論にまで接続していくような、そういう堂々とした骨格がほしい。
そのためには、やはり、何度でも言及できる「基本書」に内在して、「自分の頭を使用して」論理性を磨く必要があると思う。

 

原書的であることによって内在せよ。

 

それが基本を磨くということかな。
ピカソが一日3枚絵を描いて、料理人が桂剥きして、武士が一剣をみがいて、私にとっての基本は何だろ。

 

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