読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

星の動く音がうるさい

2016年からニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどいな

デカルトの方法的懐疑は失敗してると思う

哲学論争テーマ

f:id:jougetu:20160503163045j:plain

大学3年生のときに、必修科目の授業を棄却して、文学部の哲学講義に潜り込んでた。

哲学史の授業は、たいてい古代ギリシャから始まるか、中世のデカルトから始まるんだけど、その授業はデカルトからだった。

 

「まゆつばかと思われるかもしれないけど…」「馬脚をあらわすことは明らかなんですが…」って、先生がいつも申し訳なさそうに講義してた。先生!そんなの気にしなくても大丈夫だよーー!って言いたくなるくらい、知的謙抑がすごかった。

「延長」概念でキュンとした話

これ私だけかもしれないけど、デカルトの「延長」概念を聞いたときに、これこれ!こういうのがしたかったんだよー!哲学到来!始まった!って思った。一人で。

 

この世界を見渡してみたときに、目の前に机があって、私には心がある。
机は見えるのに、心は見えない。
ほんなら、これは何か別々のものなんだろうけど、何が違うの?

 

机は分子の集合体でできてるとして、心はどういう風にできてるの?それがないと心が成立できないようなものって何?心の本質は何?って考えてみたときに、デカルトは、思惟、って答える。
ほうほう、これはわかる気がするな!心のなかであれこれ考えるときに、心があるんだよなあ、って思った。じゃあ、あれこれ考えないときは、心はないんかいって思った。

 

それに対して、じゃあ物体の本質は何?それがないと物体が成立できないようなものって何?って考えてみたときに、デカルトは、延長、って答える。
え、延長!?どゆこと?言いたいことわかるような、わからないような、のどの奥がむずむずするんだけど、確かに、机の中の分子の結合形態を考えてみると、その一箇所に分子が居座って、他の分子を押しのけているわけだから、その一箇所には分子が拡がっているってことだから、延長っていうこと?

 

っていう感じで、ふつうは原子とか分子って答えたくなるところで、延長とかいう抽象概念で説明することができてるから、絶妙な言葉で表現してるなって思った。これが哲学なんだなあって、思った記憶がある。

 

上では「本質」って言ったけど、デカルトは「属性」って言葉を使っていて、そのときは気づかなかったけど、属性や実体っていう対概念を使えば、色々と便利なことがわかった。
それと上の論証過程は、私が勝手にわかりやすいように言い換えてみただけだから、厳密な順番とは違うし、デカルトは原子を否定してるので、当時の私のイメージは正確じゃない。

デカルトの方法的懐疑

私が夢の中にいたり、悪魔によって現実にはないものを見せられたりして、欺かれているのだとしても、欺くには対象がいるんだから、欺かれている対象であるところの私は存在する。
何かを欺かれたり、疑っている、つまり何かを思っているかぎりにおいて、私は存在する。

世界の全てのものを疑ってみても、そうやって疑っている限りにおいては、私は存在するけど、1秒前の私は、悪魔によって勝手に記憶を植えつけられて仮構された私なのかもしれないから、今この瞬間疑っている私しかいないんだよ、と、ほとんど情報量0のものにたどり着いて、これだけは信頼できる確固とした存在なんだと主張した。

 

プロセスは下のとおり。

 

遠くの人が近づいたら、じつは人形だったということがあるように、遠いものに関する知覚は信頼できない。

近い知覚は信頼できる

近い事物を知覚できていると思っても、それは夢かも

夢の中であったとしても、知覚に関係なく独立して存在する幾何学的法則は信頼できる

2+3=、と計算しようとしたまさにその瞬間、悪魔によって答えをすりかえられているのかもしれない。そして、そのすりかえることによって、矛盾のでないように、全世界の事象を統一的法則にしたがって整理しなおしてるのかもしれない

そういうふうに欺かれているのだとしても、欺かれている私はいる

デカルトの基礎付け主義における循環論法

ところで、疑っているときに、疑っている私がいる、って確かな感じがあるのがなぜか。
なぜかわからないけど、明晰判明な認知が、できている(この言ってる意味をなんとなくつかむのが私は難しかった)。
この原始的原点から、どんどん滑走していく。
明晰判明に認知できるものが、真実だとわかったんだから、明晰判明に認知できるものは、全て、真実であると、言い始める。

 

しかし、ただちに反論できるのは、「全て」っていうのは言いすぎでしょって。
自分の心の状態を明晰判明に認知できるからといって、一足飛びに、知識一般も明晰判明に認知できるとはいえない。

 

ここでは黙って見過ごすとして、このあとすぐにデカルトは神の存在証明をするんだけど、そのときにこの明晰判明の認知という武器を使う。


これも見過ごすとして、問題なのはこのあとに、明晰判明の認知の正しさをダメ押しで証明しようとして、神の存在を引っ張ってくるので、循環論法になってるってこと。

 

デカルト曰く、結果は原因より多くなることはできない。なぜなら、結果の大きさのほうがドカーーンって大きいとしら、原因は同じ大きさになろうとしたら、今の大きさよりも多くのものが付け加わって、そこで初めて結果の大きさになるということだけど、そのより多くのものは無から生じたことになる。無から何も生じないということは、明晰判明の認知によって明らかである。したがって、原因のほうが常に大きくないといけない。

原因>結果、はいいけど、原因<結果、はだめ。原因はめちゃんこパワーをもつというのが、この時代の考え方だった。

 

こんな感じで、「結果の実在性は、原因のうちにそれ以上の大きさで含まれてないといけない」という因果原理を採用してる。

 

ところで、初め、疑ってる私を証明するときに、外部世界の知識一般を全て否定した論理的帰結として、疑ってる私が出てきたんだけど、外部世界の知識一般を否定するということは、神や因果原理を否定してるってこと。

それなのにデカルトは、神の存在を証明するときに、「因果原理」を使ってしまってる。

要するに、自分を欺いてくる悪魔も、神も、因果原理も、何も証明できてない。疑ってる私だけはあるけど、情報量が0。

 

このデカルトの立場は、知識の内在主義における基礎付け主義というらしくて、つまり、これだけは確かだろうっていう確固とした一つのものを見つけ出してきて、あとはそこから全て演繹しようという態度のこと。こういう風に遡っていくと、情報量が減っていくんだってさ。

『知識の哲学』p.109-130参照。この本のおかげで、少し分析哲学になじめた。

 

ここからは私の考えることだから、間違ってる可能性がかなり高い。

 

培養液の中に私の脳が浸けられて早5年、高度な知性をもつハツカネズミたちによって全ての脳状態が完全に管理されているので、私に思い通りの幻覚を起こさせたり、考えさせたりできている。デカルトによれば、疑っているかぎり、私は存在する、ということだけど、ネズミが私の脳をいじって、「何かを疑っているときの脳状態」を正確に再現したとき、私はたしかに何かを疑っているけど、それは「疑わさせられている」。
したがって、私の言葉で正確にデカルトの言葉を言い換えると、疑っているかぎり、あるいは、疑わさせられているかぎり、私は存在する、になると思う。欺かれている、と、疑わさせられている、というのは似てるけど違う。

広告を非表示にする