星の動く音がうるさい

2016年からニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどいな

美は余剰か

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美は内部にある

あくせく働いて、いろいろ失敗して、たくさん叱られて、くたくたになって会社から帰っているのに、顔を上げてみれば、地平線の向こうでは夕焼けが爆発して、いたずらに色彩を濫費してるとき、私の理性を無視して、強制的に美が与えられる。

疲れてるのに、美しいなって感じちゃう。
雲が紫に染まって、赤が太陽に統括されて、ふざけてるくらい、色が無駄づかいされて、しかも迅速に消えること。
無意味に、おしみなく美が与えられることで、今日の瑣事が無効になる。
私のような対極の存在に与えられるほどの、大きな美があふれていて、自然自体にとっては一個の余剰である。

そこでは自然に美自体が実在するのではない。
美は、自然から弾き出されて、余ってる。
弾き出された美は、どこにあるのかといえば、私の心の中にあるとしか言えない。
心の中にあるのなら、人それぞれ違うものになるけど、現に、それぞれが好きなように美を感じてる。
それぞれの美の基準は違う。

自分の外部にある風景の形や色を、感覚器官を通して知覚して、もろもろの悟性によってその形や色が組み立てられて、外部の夕焼けとそっくりの知覚像がつくれた後に、その知覚像を見て美しいなと印象を抱くだけであって、形と色のような性質と並んで、美という性質が入ってくるわけではない。
したがって、美は心の中にあるのであって、当の夕焼けのある場所にあるのではない。
夕焼けの知覚像を見て、その知覚像を指して美しいと思っているだけ。
知覚像が外部のその場所に視空間内部で貼られてるだけであって、その知覚像を指して美しいと言っているだけ。
知覚像越しに見ているので、生のままで世界に触れてない。

美は外部にある

しかし、夕焼けを見て、美しいと思うとき、美しいのは夕焼けのある世界、つまり私の外部の世界なのではないだろうか。

夕焼けを見て、美しいなと感じたのだとしても、その感じられた美しさは目の前に広がる夕焼けにあって、心の中にあるわけではない。美は外にある。私が見ている美しい夕焼けが端的にある。一個の絵画のように、それ自体物として固まってる。私が見ている美しい夕焼けという「物」がある。夕焼けを見て私が美しいと思っているという「こと」ではない。「こと」のように移ろい流れているのではなくて、あの夕焼けやこの石の「物々しさ」が確固としてある。

そうすると幾分の確信をもって、私は世界にいると言える。

 

『物と心』参照。「絵とは、絵の具の原子分子の組み合わせだから、そこに美はない」と絵と美を引き剥がして、絵抜きの美を想定するのはおかしいとのこと。

『群像2015年11月号』p.58参照。美は自然の中では過多であり、自然が自然そのもののために美しいものであるとは思われないとのこと。

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