星の動く音がうるさい

2016年からニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどい

神の存在を証明する4つの方法

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目的論的証明

世界は精巧に美しくできている。これは偶然の産物なのだとは考えにくい。設計者がいるはずだ、それを神と名づけよう、と自然界の美や秩序から神の存在を証明する方法を、目的論的証明という。


例えば、道ばたに一個の時計が落ちている。複雑な歯車の各機構が、時間を表すという唯一つの目的のために、完全に調和して協働している。これは自然界が偶然につくりだしたものではない。誰か設計者がいて、目的を与えて、つくりだしたものだろう、と設計者の存在を思い浮かべるのは当然。
というか、この世界全体がそうだ。太陽、地球、重力、あらゆる要素が完全に調和しなければ、生物は存在できない。自然界のそれぞれ部分が完全に調和しあって、美しい秩序を形作っている。これが偶然現れたということであれば、あまりに幸運すぎる。

目的論的証明への反論

我々は、時計を作る人がスイスにいることを知っている。そして、複雑な歯車の時計がそこらじゅうに落ちていないという経験を何度もしている。だから、時計が道ばたに落ちていても、設計者がいると気づけただけのことだ。結果から原因を推論するには、このように一定の背景情報が必要である。

しかし我々は、世界創生の背景情報を知らなすぎる。つまり、神が自然界を設計し、つくりあげている場面を現に見たことがない。結果が原因に結びつくところを一度も経験したことがないので、背景情報が不足しているから推論できない。

というか、世界が美しく精妙にできている理由は、こういっちゃなんだけど、偶然だ。ダーヴィンの自然選択説によってそれは説明できる。例えば、この世界に多様な生物がいる理由は、突然変異の改良点が「自然選択」によってうまく拾い上げられて受け継がれていくからだ。そして、その多様な生物がちょうどいい数で調和し合っているのは、「生存競争」によって種の個体数に限界が生じるからだ。

なぜ、目的論的証明っていう名前がついているのか、私にはいまいちピンとこなかったので、私だったら設計論的証明とかにするかな。

宇宙論的証明

全てのものには原因がある。しかし、無限にその系列を遡ることは不可能なので、それを打ち止める第一原因があるはずだ、と因果律から神を証明する方法を、宇宙論的証明という。

宇宙論的証明への反論

全てのものには原因がある、と前提しておきながら、第一原因というそれ以上原因をもたない極点を措定するのは非論理的。

それに、原因の無限後退をどこかで止めたいのなら、ビックバンのところで止めたらいいじゃん。因果の系列が、まさにその始点に、収束して束になってるんだから。宇宙の全現象をビックバンから説明できる。それなのにもう一歩、奥にひっこんで神を措定するのは無意味。ビックバンじゃなくて、量子の海とか、無とかでもいいよ。量子の海をつくりだした宇宙外の超空間、でもいい。ただそこから一歩奥に入って、わざわざ神を出してくる必要はない。また無限遡及が始まるから。「端的にそれがある」という状態が始点に措定されないと無限遡及が始まる。もちろんここで、ビックバンを神と言い換えるのは問題ない。量子の海を神と呼んでもいい。超空間から宇宙がつくりだされたことを、宇宙外の超空間という神が宇宙をつくりだしたと言ってもいい。でも、科学的な説明を、神という言葉でただ言い換えるのは、情報量が0なので無意味。そのことに我慢できずに、科学的な説明以上の神聖な意味をこめてしまうと、因果の系列を無視してしまうので矛盾する。

存在論的証明

神は完全である。完全というからには、神は「存在」しなければならない。なぜなら存在したほうが、より完全だからだ、と定義によっていきなり存在し始める神の存在証明を、存在論的証明という。

中世のアンセルムスが「それ以上大きなものを考えられないようなもの」が神であると定義した。それは言い換えれば、上で書いたように、神は「完全性」を有しているということだ。自分が今パソコンの前で、「神は完全なんだねー。ふーん」って考えているとき、頭の中には、神は確かに存在している。電位パルスか、意味表象か、なんでもいいけど頭の中に、神は意識として存在している。ここで、もし神が頭の外には存在しないのならば、それは完全とはいえない。頭の中にもあって、外にもあるもののほうが、「より大きい」からだ。そして、頭の外にあるということは、この世界に実在しているということだ、とどんどん膨張しまくって完全になる。

存在論的証明への反論

神は完全である、という定義が正しいとしても、単なる定義から実在を導き出すことはできない。そこで言われているのは、「もっとも完全なもの」という主語概念が、「存在する」という述語概念を含むということが言葉の上で説明されているだけだ。定義とは、仮に存在するならどういうものなのか、を説明するものに過ぎない。

ここまでの3つは、なんとなく知ってたけど、哲学事典を読んでたら、もう1つあった。

道徳論的証明

徳にふさわしい幸福を与えてくれる神がいてくれるはずだ、というかいてくれないと困る!と道徳的要請から神の存在を証明する方法を、道徳論的証明という。

道徳に従って有徳な存在になったとしても、じっさいにそれに見合った幸福が与えられているかどうかわからない。幸福に「値する」人間になったということを示すだけだ。事実、我々の日常感覚は、有徳であることが、必ずしも幸福であることを意味しないように見える。それでもなおかつ道徳的実践を行うためには、徳と幸福の比例関係を保証してくれる存在が要請される。

道徳論的証明への反論

これは証明ではなくて、願望表現に過ぎない。
というか、道徳的行為というものは、義務を義務として実行するからこそ価値があるのに、神の浄福のような報酬を目的に想定してしまっては、偽善なのでは?
この反論部分は、なかなか探しても見つからなかったので、私が勝手に書いた。

 

『哲学のアポリア』p.19-34参照。この本は使えるな。

 

 

 

 

▼2018年11月12日追記

一神教の神は、宇宙外部に存在する。多神教の神は、宇宙内部に存在する。汎神論の神は、宇宙そのものが神。仏教には神はいない。神すら解脱の対象。解脱によってこの世界から消失するのが目的。

こんな感じで、神のありかを4つにわけると、わかりやすいなって思った。ただし、一神教のなかでも有神論は、神は宇宙外部にいながら、宇宙内部に干渉しているという。たまに奇蹟という形をとって、因果律を停止して宇宙内部に入ってきたり、なぜか宇宙外部にいる神に人の祈りが届いたりする。超越しながら内在しているって感じかな。