星の動く音がうるさい

2016年からニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどい

「どっちもどっち」の相対主義は、仏教と神道のせいなのか

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議論における価値相対主義

日本では、対立する意見であっても、みんな仲良しの和の精神で、「そういう意見もあるよね」と対立することなく包容され、いつのまにか全体の意見のなかに溶け込んで終わり。

会議の報告書は、両論併記で終わり。

喧嘩をしても、「どっちもどっち」で終わる。

価値の比較考量ができてない。

痴漢にあった女性だって、服装がえっちすぎると言われて、原因と責任が混同されて、どっちもどっちの論理で一蹴される。

もはや森羅万象がどっちもどっち。対立がこの世に存在しない。


一方、欧米では、対立する意見同士は徹底的に対置される。

お互いが自説の優越性を示すために、相手の意見を細かく分析して、自分の意見も細かく分析して、意見が洗練化されていくのにともなって論点が明らかになって対立が先鋭化、さらに細かく問題を分析することで、基礎的な命題に分割された前提同士に、等質性ないし共通性が見出されることにより、急激に、両者が牽引されるという、反発と牽引の理論が貫いて、意見がまとまることがある。

 

この違いは、仏教と神道儒教チャンポン状態の日本文化と、絶対者の視点から価値体系を統一するキリスト教圏の欧米文化とに、対応しているのではないかと思った。

 

日本が、外来思想を受容するときは、あらゆる哲学・宗教・学問を、原理的に矛盾するものまで無限抱擁して、精神的経歴のなかに平和的に共存させるという精神的雑居性がある。
例えば、ドイツ観念論朱子学に似ているとして両者を融合しようとしてみたり、ニーチェの反語を仏教哲学の無常観に重ね合わせてみたり、フィヒテの根源的同一性を禅の主客合一の見地と同一視してみたりする。

精神的雑居性の生まれる理由

仏教哲学の俗流化、神道における絶対者の不在、儒教体系の縮小の3つの理由から、精神的雑居性が生まれる。


第一に、日本では、異なったものを思想的に接合するロジックとして、何々即何々あるいは何々一如という仏教哲学が俗流化して適用される風潮がある。一切は空なので、あらゆるものが同権の関係項として位置づけられてしまう。


第二に、神道では、開祖も経典も存在せず、究極の絶対者が存在しないので、縦にのびたのっぺらぼうの布筒のように、時代時代に有力な宗教と習合して、教義内容を埋めるという機会主義をもたらしており、仏教でも儒教でも、どんな学問でも、平和的に共存できる。たとえば、日本神話においては、天照大神でさえ機屋で神に奉げる衣を織っているので、祭られる神は同時に祭る神であるという性格をどこまで備えており、絶対者が不在なので、絶対者によって世界秩序を論理的規範的に整序する方法が準備されず、思想的感染に無防備。


第三に、唯一の自然法的体系だった儒教が、幕藩体制の崩壊によって、個別的な日常徳目としてのみ生き延びるという様相を呈しており、社会理論における統一的な世界像として通用しなくなったこと。

 

つまり、一切を相対化する仏教と、中身が空っぽで無限包容できる神道と、世界像を失って縮小した儒教によって、あらゆる思想が共存するのである。

ただし、精神的雑居性には、唯一の例外があって、それは、マルクス主義キリスト教のような、まさに精神的雑居性そのものの原理的否認を要請し、世界経験の論理的及び価値的な整序を内面的に強制する思想。
しかし、日本文化は、これすら受容していく。もはやアメーバ的な化け物。
というのも、(歴史内在的であれ、超越的であれ、)ある永遠なものに照らして事物を評価する思考法の弱い日本文化に、キリスト教の終末思想やマルクス主義史的唯物論、社会的ダーヴィニズムのような歴史的進化という観念がぶつかると、対抗できる価値体系を備えた思想がないので、思想的抵抗が少なく、その侵潤がおどろくほど早いために、かえって進化や進展の意味内容が空虚になり俗流化して、「進化」が過程から過程へのフラットな「移行」としてとらえられ、中身がすっぽぬけて受容されるのである。

 

一方ヨーロッパでは、バロック建築のような天上的完結性で社会理論が建設される。近代社会理論形成期においては、キリスト教における唯一絶対の神による世界秩序の計画的創造という思考様式が世俗化されることによって、自由な責任の主体としての絶対君主による形式的法体系や合理的官僚制さらに統一的貨幣制度の創出への道を内面的に準備した。つまり、キリスト教圏における目的論的自然観の骨格が近代社会理論に適用されたことで、絶対者の視点から論理的及び価値的に整序された世界秩序が形成されており、これは日本の多視点的な秩序形成とは対比的である。

 

まとめると、日本における「どっちもどっち」の相対主義は、一切を相対化する仏教と、中身が空っぽで無限包容できる神道と、世界像を失って縮小した儒教に由来している。

 

『日本の思想』p.13-43参照。丸山自身は、外来思想の受容パターンを、日本の議論のパターンに接続していない。冒頭のページを何度も読み返してしまうので、3分で見返せるように暗記用にまとめた。