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星の動く音がうるさい

2016年からニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどいな

詩は再現か

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過去の感覚

寂しさに 宿を立ち出(い)でて 眺むれば いづこも同じ 秋の夕暮れ

(良暹法師)

寂しくて寂しくて仕方ないときに外に出たら、夕焼けが、愕然と拡がっていた、感覚を忠実に再現している。

詩は、過去の感覚の再現である、という哲学者は多い。

西田幾多郎によれば、詩は純粋経験の再現である。

事実上の花は決して理学者のいうような純物体的の花ではない、色や形や香をそなえた美にして愛すべき花である。ハイネが静夜の星を仰いで蒼空における金の鋲(びょう)といったが、天文学者はこれを詩人の囈語(げいご)として一笑に附するのであろうが、星の真相はかえってこの一句の中に現われているかも知れない。

 西田幾多郎善の研究』p.81-82

ところで、私は哲学を読むときには、「どうすれば真実を手にすることができるか」というテーマで哲学者たちが闘っていると想定して読んでいくとわかりやすいのではないかと思っていて、例えばカントは、「有限な人間は、真実を手にすることはできない。限りなく近づいて漸近線を描くだけ」と言ったけど、西田幾多郎は、「今この瞬間に、すでに真実を丸ごと経験している。しかし次の瞬間、思惟の方面や物理の方面で分裂していく運命にある」と言った。したがって、西田幾多郎によれば、「星は金の鋲である」というハイネの詩は、純粋経験の主体方面の再現といえるのではないか。

プラトンによれば、詩はイデアの再現の再現の再現である。
詩は感覚像の再現であり、感覚像は事物の再現であり、事物はイデアの再現であるため、詩は「真実から三番目に離れているもの」である。詩において、三番だしの真実を手にすることができる。

アリストテレスによれば、詩は、普遍的なものを目指す人間の行為の再現であり、もっとも優れた文学形式である。人は再現されたものに喜びを感じる。たとえ現実にある物を見て苦痛を感じたとしても、その現実を再現したもの(詩や演劇や彫刻)であれば、かえって喜びを感じるのである。
しかし、これは普遍性の再現のようなもので、感覚の再現というわけではないので、本稿でいう「再現」とはだいぶずれるので、「再現」で真っ先に思い出されるのがアリストテレスなんだけど、今は念頭に置かない。

未知の感覚

次の詩は、感覚の再現ではない。
具体的な馬らしさが書かれているわけではないので、匂いや手触りが喚起されない。

馬を洗わば 馬のたましひ 冴ゆるまで 人恋わば人 あやむるこころ

(塚本邦雄)

うまをあらわば/うまのたましい/さゆるまで/ひとこわば ひと/あやむるこころ

 

馬の魂が冴えるほど洗うことと、恋人を殺したくなるほど恋すること、が同列に置かれている。
冴えるというのは、ひえびえと凍りつくようなものだし、一方で恋は情熱的なもの。
相対立するもの同士がぶつけられることによって力を生んで、本来なら一行の詩には納められないのに、なぜか納まっている。
詩の奔流はすごいのに、具体的な馬の映像的イメージは、そこまで強くない。

馬の詩を見て、詩人の穂村弘はこう言う。

「現実の表現」とは事実上の「再現」であって、表現の根拠を過去に置いている。
それに対して塚本的な「何か」は、自らの表現が未来と響き合うことを期待している、とでも云えばいいだろうか。ここで云う未来とは過去の反対語としてのそれではなく、現実を統べる直線的な時間の流れからの逸脱そのものであるような幻の時である。

穂村弘『短歌の友人』

つまり、詩には2つあって、1つ目は過去の感覚を再現して、過去と響きあう詩。2つ目は、未来と響き合う詩。
未来の何と響き合うのかについて、私なりに言い換えれば、未来にある未知の感覚と響きあって、その経験していない感覚を教えてくれる詩ということ。

詩人の渡邊十絲子も、穂村に同意し、感覚の再現とはまったく性質のちがうことばで書かれた詩が存在するという。この馬の詩は、昔に馬を触った体験や匂った感覚を再現する詩ではない、そういう具体的な馬ではなくて、むしろ馬一般という概念を表現する詩。「あれあれ、あの感じですよ、知ってるでしょ、あの匂い、あの手触りのこと」と体験や感情をひっぱってくる具体的な詩ではない。感情的体験が共有されていることを前提にしていない。
詩に親しんでいない人にとっては、感覚を再現してくれる詩のほうがわかりやすいけど、それは逆に言えば、未来にある、未知の感覚を味わえないということ。
別の文脈だけど、未知の感覚を教えてくれる詩について、こう言っている。

刺激されていたのは過去に経験した感情ではなくて、それまでいちども味わったことのない、未知の感情だった。わたしは詩によって、あたらしい感情を体験させられていたのだ。ここに書かれていることばは、いまは照合すべき実体のない呪文だが、やがて私の未来のどこかで、なにかちゃんと「響きあう」。その予感が、わたしのからだをいっぱいに満たしていたのだ。

渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』p.37-38

こうして穂村と渡邊は、過去の感覚を再現する詩と、未知の感覚を予言する詩の2種類に分けている。

『今を生きるための現代詩』p.30-38参照。この本はいつか絶対に紹介する。

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