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星の動く音がうるさい

2016年からニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどいな

「待つ」ということを人生の一部に入れたい

文章のみがき方

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ブログを書くときは、気になる数行を頭に入れてから、席を立つ。日常の雑務をこなしていると、そのテーマが蒸してきたり、逆にサッパリ抜け落ちたりして、自動的に選別される。
偶然の働きに身をゆだねて、理性を退避させたところの空き地に、「水が満ちてくるように」何かがやってくるのを待つ。
そんな風にして、待たないようにして「待つ」ということを少しずつ人生の一部に入れたい。

もちろん、目標をもって、計画をたてて、進捗状況をチェックするという合理的な待ち方がないと、生活が成り立たない。
でも、その前のめりの待ち方は、未来のことを先に囲い込んでいて、想定外の働きに期待していない。
目的手段の関係でガチガチに固まって、どこまでいっても中心が自分からはずれない。
何かもっと別の待ち方のできる環境を、人生の一部に入れられたらいいなと思う。

創造的な作品づくりには、そういう「緩み」が必要だと言うので、期待せずに待つということは、文書を書くのには有効だと思う。

でも、最近はそれだけでなくて、もっと何か別の待ち方がしたいなと思い始めてきた。
かといって、身体のリフレッシュのために、瞑想や運動で、緊張した休憩を取り入れたいというわけでもない。人格の気品のために、ゆるやかな時間に遊びたいというわけでもない。
何を待っているのかもわからないという徹底的な無効性が、人生に大切な気がする。

「すばらしい日だな。こんなに何もなくて、こんなにすばらしい日は、一生のうちに何度もないかもしれない」
本多は何かの予感に充たされてそう思い、そう口にも出した。
「貴様は幸福ということを言っているのか」
と清顕は訊いた。
「そんなことを言った覚えはないよ」
「それならいいけれど、僕には、貴様みたいなことはとても怖くて言えない。そんな大胆なことは」
「貴様はきっとひどく欲張りなんだ。欲張りは往々悲しげな様子をしているよ。貴様はこれ以上、何が欲しいんだい」
「何か決定的なもの。それが何だかはわからない」

三島由紀夫『春の雪』p.25

ああ自分が待っていたのはこのことだったのか、とあとで思い知ることのほうが、はるかに重い意味をもつ。

当時の日記でも、そう思っていた。

でも、こういう待ち方は、具体的な形でどう実践できるのかまだわからない。最小単位に分割して、人生の一部に別枠として具体化できるものなのか、もっと根本的にやられるのか。象徴的に自分を捨てるやり方を知りたい。

 

 鷲田清一『「待つ」ということ』参照

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