ブログを書いてる最中は、気になる数行を頭に入れてから、席を立つようにしてる。
お風呂掃除とかトイレ掃除とか、日常の雑務をこなしていると、その数行が蒸してきたり、逆にサッパリ抜け落ちたりして、自動的に選別される。
偶然の働きに身をゆだねて、理性を退避させたところに、「水が満ちてくるように」何かがやってくるのを待つ。
そんな風に、「待たないようにして待つ」ということを少しずつ人生の一部に入れられたらいいなと思う。
創造的な作品づくりには、そういう「ゆるみ」が必要だと言うので、いい文書を書くときにも、前のめりにならずにゆるく待つのは有効だと思う。
でも最近はそれだけでなくて、もっと予測不可能的に待ちたいと思い始めてきた。
何かを待っているのに、何を待っているのかわからないという狂人じみた不合理が、人生に大切な気がする。
「すばらしい日だな。こんなに何もなくて、こんなにすばらしい日は、一生のうちに何度もないかもしれない」
本多は何かの予感に充たされてそう思い、そう口にも出した。
「貴様は幸福ということを言っているのか」
と清顕は訊いた。
「そんなことを言った覚えはないよ」
「それならいいけれど、僕には、貴様みたいなことはとても怖くて言えない。そんな大胆なことは」
「貴様はきっとひどく欲張りなんだ。欲張りは往々悲しげな様子をしているよ。貴様はこれ以上、何が欲しいんだい」
「何か決定的なもの。それが何だかはわからない」
三島由紀夫『春の雪』p.25
ああ自分が待っていたのはこのことだったのか、と。
当時の日記でも、そういうのを待っていた気がする。
鷲田清一『「待つ」ということ』参照