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星の動く音がうるさい

2016年からニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどいな

好きな言葉をパクって、文章を書くメリットと罪悪感

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肉声でしゃべること

自分の言葉で、文章を書ける人はすごい。

思想家の鶴見俊輔という人は、自分の肉声でしゃべるように書くことが大切だと言ってる。

紋切型の言葉に乗ってスイスイ物を言わないこと。つまり、他人の声をもってしゃべるんじゃなくて、自分の肉声で普通にしゃべるように文章を書くことです。
(鶴見俊輔)

借り物の言葉ではなくて、自分が思ったこと、感じたことを正直に書いていけば、自然な文章が書ける。
好きな言葉をパクって書いたばっかりに、その言葉だけ浮いて見えたり、ドヤ顔が透けて見えたりすることがあって、私はそれでよく失敗する。

やっぱり、すなおに書くのが一番だ。

 

鶴見俊輔は12歳のときから、「いいな」と思った文章の書き抜きを始めたんだって。
私もtwitterで「いいね」した文章は、全部印刷して見返して、自分の中に取り入れてるから負けてないもん。

 

でも、鶴見俊輔の場合は、文章を真似したいから、書き抜きをしたわけではない。
自分の文章とその名文を照らし合わせて、「まずいな」という感じを得るために、20年以上も集めていたそうだ。

(私は)毎日、文章を書いて暮らしを立てているわけですが、なにか、泥沼のなかで殴り合いをしているという感じです。紋切型の言葉と格闘してしばしば負け、あるときには組み伏せることができ、あるときには逃げる、といったように、紋切型との殴り合いに終始している、その問題をおたがいに自分の前に置いてみましょう。
(鶴見俊輔)

立派な文章家なのに、たえず自分を相対化しようとしているのはすごい。

パクる効用

でも、好きな言葉をモチーフにして、ちょっとイジって似たような表現を使ってみたり、背伸びして専門用語を使ってみたりするのって、私は大切だと思う。
大学生がよく、読んだ本のお気に入りの言葉を、友人との会話の中でさりげなく使ってみたりして、ぎこちなく使用法を覚えていくけど、そういうことでしか、なかなか過去の思想の肉感みたいなものが身につかないと思う。

 

私の場合3ヶ月以内に読んだ本だったら、頭のどこかにつっかかってる感じがする。
例えば、吉本隆明の何かの本で、「今の美学は、ヘーゲルの美学を小さく刻んだようなかたちで展開してきた」みたいなことが書いてあって、思想を「小さく刻む」っていう表現があるんだあって思って、いざというときにその表現がポッと出てくることがある。
それは言葉だけ切り花みたいにとってきて表面的にパクったというより、その言葉によって、世界が新しい意味で区切られて、物事の捉え方をごそっと変えられているので、その意味の区切りにともなって私の認識の仕方も変わっているということだから、吉本の認識の仕方自体を根元からパクったということ。これは吉本の思想を小さく刻んで私の中で再現したということ。

だから言葉をパクることで、思想をパクることになる。

 

でも、ある言葉を思い出せるのは、たいてい3ヶ月以内の本のことが多いから、今の自分の言葉って、結局のところこの3ヶ月の成果。

過去に頼らなければ言葉を出せないというのなら、時代の制約を免れていないということを意味する。

 

すぐに借り物の言葉を使ってしまうと、モヤモヤしてわからないことに枠組みを与えて安易に解消してしまうことになるので、モヤモヤが自分の中で蒸さないという欠点もある。

それに、どんな短い単語でも人のものだから、引用の作法に基づかずに、自分の言葉のように使ってしまうのはやっぱり罪悪感が強い。

 

いろいろ思うけど、パクるときには、かっこつけのためにパクるってことだけはやめようと思う。

私が大森先生から学んだことというのは、こう言ってしまうとあまりありがたみがかんじられなくなってしまう恐れがあるが、つまるところ、「自分で何を言っているのか分からないことは喋るな」ということであったと言えるだろう。そして、哲学においてこのことを実践するのは、本当に難しいことなのである。

…(略)

自分で分かっていることばかり喋るのでは進歩というものがない。だからもちろん背伸びはする。大森荘蔵と議論するということ自体が学生にとって背伸びである。見栄もはるし虚勢もはる。しかし同時に「自分で何を言っているんだか分からないことは一言たりとも喋るな」という鉄則は断固守らなければならない。
(p235)

 

野矢茂樹大森荘蔵 哲学の見本』p.235参照

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