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星の動く音がうるさい

2016年からニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどいな

抑制した文体が、凄まじい効果を与える

文章のみがき方

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壮絶な体験にもかかわらず、それが感情を厳しく抑えて描写されると、痛々しいほど内容が伝わってくる。

 

なぜなら、筆者が不在なので、出来事を直で経験するはめになるから。

 

「ああ寂しくて寂しくて仕方ない」などと露骨な感情が垂れ流されてしまうと、寂しがっている感傷顔の筆者が、意識の裏にこびりついてくる。
反対に、感情を背後に隠されて、筆者が不在になっているときには、寂しく映った景色だけが残る。
筆者の感情が消えて、視点だけがある。見たり、思い出したりするときには、必ず視点が存在する。その局所的一点ののぞき穴から、視線が一点に集約されて、個々の事実にスポットライトが当たる。視点を重視するあまり、事実だけしか見れてない。生の事実だけを、見るのである。

 

だから、生々しく感じる。
生の風景をそのまま見ることになるので、もはや筆者の感情のことなんか気にする必要はなくて、自分がそのままの出来事を感じて、勝手に自分でつらくなる。
特に、筆者が苦しんで傷ついて、無残に打ちやられているようなときに、それが何の思い入れもなく描写されたときは、凄まじい効果が出る。

 

ヘミングウェイの『老人と海』の文体について調べたことがあって、あの小説からは形容詞が追放されている。装飾はうんざりなので、形容詞に用はない。形容詞は事物の周りに靄みたいにまとわりついて、輪郭をぼやけさせるので、情緒的な雰囲気を伝えるにはいいけど、正確に事物の有り様を見ようとするときには、妨げになってくる。
綱ですりきれた手に、海の塩がしみこんで痛む様子とか、それでもなお綱を引いてカジキを釣ろうとする老人の孤独な闘いが、形容詞によって大げさに盛り立てられることなく、動詞の行動性と、名詞の固体性を中心にして、実直に描写される。
こうして最後の最後まで抑えつづけた忍耐によって、ラストシーンには物語の全効果が集中することになる。

 

抑制するといったら、引いて引いて、引き算の考えのように見えるけど、対象の核心を絞り込むので、むしろ突き返すような鋭い表現になる。
抑制した文体に磨き上げる過程においては、文章に残す部分と残さない部分への選択と集中が必要になるので、自分につきすぎず、離れすぎず、きわめて冷静にあたる習練が積まれることになり、対象への凝視がきいてくる。それで対象の中心を把握できる。
一切妥協せず、簡素な文章に抽象化して、情報量が減るだけ減って、もうそれがなければ成り立たないようなギリギリの言葉だけが残る。ほとんど詩に近い。

 

石垣りんの『崖』は、抑制がきいている。

戦争の終り、
サイパン島の崖の上から
次々に身を投げた女たち。


美徳やら義理やら体裁やら
何やら。
火だの男だのに追いつめられて。


とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場所。
(崖はいつも女をまっさかさまにする)


それがねえ
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに
どうしたんだろう。
あの、
女。

 


『私の目にはじめてあふれる野獣の涙』p.64-65

今でも海に自殺し続けている女性。
それをウワサ話のように「それがねえ」などと部外者の極地で、悲嘆を抑制して表現しているので、感傷的な顔が透けて見えない。
もしここで、「それがなんと、まだ一人もとどかないのだ!」と、あからさまに悲しみを表現されていたら、興ざめになる。

 

苦しくて苦しくて仕方ないときに己を虚しくて、感情を見捨てることで余韻が出る。

 

『私の目にはじめてあふれる野獣の涙』参照

 老人と海』参照

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