星の動く音がうるさい

2016年からニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどいな

ブログを書く理由

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曲解されて批判を受けることもあれば、一生懸命書いても何ら反響のないこともあるのに、なぜまたコリずに不完全な自分を満天下に晒すのか。
書くとスッキリするからとか、意見を整理できるからというのは、ノートに書くだけでも達成できることなので、書いたものをブログで公表する理由としては、十分な説明とは言えない。

1.必要

自分の書いた文章が、誰かの役に立てたら嬉しい。
詩や日記で、誰かに楽しんでもらえたら嬉しい。
批評やエッセイで、誰かにアイデアを提供できたら嬉しい。

2.共感

自分の文章が、相手にしっかり両手で受け止められて、共感されたときは嬉しい。
共感「しようと」してくれることも嬉しい。「君の言いたいことはわからないけど、とにかく共感したいという気持ちだけは絶対ある」と思って読んでくれる読者がいたら嬉しい。
苦しんで傷ついてたときの自分を遡って救ってくれるような、決定的な共感も嬉しい。

3.批判

僕は思うのだけど、読んだ人がある部分について何か指摘するとき、指摘の方向性はともかく、そこには何かしらの問題が含まれていることが多いようです。つまりその部分で小説の流れが、多かれ少なかれつっかえているということです。
村上春樹『職業としての小説家』p.148

批判されることによって、自分が開いていくときは嬉しい。

4.理解

そうとわかりつつも表現者が表現するのをやめないのは、たまにその表現が正しく理解されるときの喜びを忘れられなかったり、あるいはそのうち正しく理解されることもあるだろうという希望を捨てられなかったりしているためにすぎない。
西部邁『知性の構造』p.234

内容を正しく理解してもらえると嬉しい。
理解「しようと」してくれるのも嬉しい。
大学のゼミのときに、K君が私の長大な文章を見て、「乗月さんの書いてること理解しようと何回も読んでみたんだけど、完全にはわかんなかったー!でも僕なりの意見を言わせてもらうと…」って言って持論を展開してくれて、誠実で嬉しかった。

そして、これはどうしても書きたいこと。
大学の教授に、自分なりの意見をしどろもどろになりながら、それでも精一っぱい話したことがあって、そのときに「○○ってことだよね」と、一撃で概括されて衝撃を受けた。
その一言で、自分の在り方がごそっと変わったのがわかった。何だかうまくいえないけど。
それも、教授は私の一生懸命さに配慮して共感の気持ちから言ったというのではなくて、内容の真理性にしか興味がない最高理性の裁断で、的確に頭脳を働かせてこっちの論理に内在して処理した。

5.了解

「なんとなく」見られると嬉しい。
「へー、よくわかんないけど、そういう意見もあるんだねー」と、とりあえずそのまま受け止められるとき。
文章の内容に共感してるわけでもないし、共感しようと思って熱心に見られてるわけでもなく、うすらうすら、ぼんやりと、無関心に見られてる。
相手の話している言葉が日本語だと理解できている点では、「理解」に近いけど、ただ意味理解の対象というだけには還元されないような、「受け止められている」感がある。かといって共感でもない。


必要
共感
批判
理解
了解
この5つの動機が、文章ごとにそれぞれの割合で、働いていると思う。
例えば、反論したくてしたくてたまらないというときは、相手の不正性を断罪して、真実を明らかにすることを企図しているので、私以外にも誰かにその不正性を「理解」してもらいたいし、私の公憤にも「共感」してもらいたいし、足らないところは「批判」されたいし、同じように不正性を断罪している同志にとって「必要」な情報を提供したい。
もっと言えば、反論しようとしている相手が世間によって大々的に支持されているようなときは、もうこっちは真実を書いて、一瞬刃が閃くだけでいい。つまり誰にも理解されなくても、こういう意見があるんだと満天下に「了解」されるだけでいいということもある。このように状況によって、5つの動機がコンビネーションして働いてくる。

この5つに分類されない、その他の理由としては、ブログが名刺代わりになるとか、金儲けができるとか、バックアップになるとか、糾弾して相手を傷つけたいとか、羨望されたいとか、罵倒されたいとか、批評によって正義論に参加することが政治的義務になるとか、色々あると思うけど、私は上の5つ。

 

村上春樹『職業としての小説家』

西部邁『知性の構造』