星の動く音がうるさい

ニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどい

量子力学は自由意志を救済するか

 

決定論

人は自由に、なにかを選択できる。

コーラを今飲んだのは、私が意志したからであって、誰にも強制されたわけではない。
しかし、選択の原因を、大脳生理学や物理学の見地から、精密に列挙していけば、その選択も先行する何らかの原因によって必然的に引き起こされた結果に過ぎないとわかる。

結果には必ず原因がある。それらの全ての因果関係を観測することは技術的に難しいとしても、原理的には全ての原因がわかれば結果がわかる。
つまり、宇宙の状態を全て測定して、ある時点の原因を全て特定できれば、それ以後の未来の結果がわかるということ。
もっと言えば、ビックバンのときには全ての結果が集まっているので、そこで計測したら未来の出来事は全てわかる。
未来の出来事は全て、ビックバンのときに決定されている。

今この瞬間の私の選択は、ビックバンのときに既に決定されているのだから、もはや自由な選択とは言えない。

心理的に自由だと思ってるだけのことで、ほんとうは自由ではない。

技術がもっと進展して、観測装置がもっと発達して、多くの原因を特定できるようになるまでは、わからない原因を自由だと思ってる。自由"感"を感じているだけ。
なにかを自由に選択しているように見えても、それってほんとうは事前に決定されているんだよ、と。これが決定論と呼ばれる立場。

コーラを今飲んだのだって、ビックバンのときに決定されている。

この決定論と自由意志論の対立は、西洋哲学史の永久のテーマ。でもこんなの子供でもわかるようなことで、結果には原因があるという因果法則が現にこの世界にはあるのだから、決定論で決まりじゃんって思う。

決定論

しかし、現在の物理学では、量子力学的な不確定性が残るので、原因があったとしても、必ずしも結果が100%生じるとは限らないとわかっている。

どの1点に量子が現れるかは絶対特定できない、ランダムで現れるのだから、どんな高度な測定装置を使っても測定できない、原理的に"規則性のない何か"が、この世界には存在している。神はサイコロを振ったのだ。

結果のあるところには必ず原因はあるけど、原因のあるところには必ず結果があるとが限らない。

原因があっても確率的にしか結果が生じないということは、因果法則を破っているということ。

この世界には空白がある。

決定論は敗北している。

もちろん、量子の出現する範囲はわかるから、それは結果の範囲がわかるということで、ゆるい意味では因果関係は存在しているかもしれないけど、そんなガバガバな因果関係をもって決定論だと言われても、はあそうですか(苦笑)としか思えない。

つまり、量子力学では先行する原因に決定されていないところの結果が存在するということだから、何ものにも縛られない自由な存在があるということで、自由意志の存在も確証できそうだ。

よかったあ、これで人間にはちゃんと自由意志があるんだ、もう安心だって私は思ってたけど、これも間違いだった。

サイコロ

量子力学から、自由意志の存在を肯定しようとすると、「量子力学的な不確定性をもってふるまうニューロンが脳内に存在している」と考えないといけない。
そのニューロンによって、決断をしてることになる。
ここでこう考えてみよう。今、そのニューロンがぶっ壊れましたと。そしてその代わりに量子的不確定性をもった物理装置を脳内に埋め込んでみる。例えば、シュレディンガーの猫のときのように、ラジウムガイガーカウンターを使った装置を埋め込もう。
というか、それは脳内に埋め込む必要はなくて、ガイガーカウンターで計測された値を脳内に送り返す装置を作ったとしても、まったく同じ機能が保証されるよねと。
はい、もうこれで終わりだよ人間。外部にあるラジウムのランダム性抽出機によって、全ての行為を操縦されることになるゴミ人形。
ランダムでパチンと動き方が変わってくる、実験マウスと同じ有様が、自由であるといえるのだろうか。

という風に、ちょっと誇張された例だけど、結局、量子力学の非決定性によって意志的決意性が決定されるのだとしたら、頭の中にサイコロがあるのと同じなので、そういう偶然の結果を、自由な選択とみなしていいのかという問いが出てくる。さようなら。

 

 『自由の条件』p.434-435参照。数年モヤモヤしてたことの問題の所在が2ページでわかった。

 

 

 

▼2018年11月12日追記

今になってこの記事を読み返したら、何から何までわかりにくい文章でうんざりする。

この記事を書いた当時は、「量子的効果が脳内で発現することによって、自由意志が発動する」というイメージで書いていたんだけど、あとになっていろいろ勉強してみると、それはちょっと難しいのかもしれないなってわかってきた。

というのも、量子的効果をマクロスケールで発現させるためには普通、規則性のある構造や非常に単純な系を、かなりの低温、例えば絶対零度近くまで冷やさなければならないので、常温である脳では作用しにくいとのこと。

この分野は、量子脳理論という分野で、汎経験説の一種みたい。汎経験説ってマイナーな分野だから、正直興味が失せるところがある。

そんなわけで、自由意志の特権性みたいなのを確保するときに、量子力学を利用してしまうと、オカルト的なところにいっちゃうかもしれないなと思って悩み中。

量子論的な不確定性が関係ないのなら、自由意志が存在するなんて言えないんじゃないかなって思う。自由意志の味方をするのが、もうしんどいよ。正直ここまでくれば、決定論のほうに転向したほうが気分的には楽なんだけど、そうだとしてもブロック宇宙説で因果性を否定するような、ぶっ飛んだやり方で肯定していきたいなと思ってるところ。決定論という枠組み自体を崩壊させたい。

あ、そういえば、よくある批判として、波動関数の収束をもってして因果の成立だという批判がある。「一定」の範囲に波動が収束するのを予測できるのだから、原因と結果の関係は崩れてないじゃんって、よく言われるけど、えーなんかずるくない?と。わたしが言ってる因果律は、ニュートン力学における決定論的な因果律のことなの!機械論的自然観における決定論的な因果律が、量子力学における確率的因果律によって否定されてるじゃんってこと。
そもそも、因果というのは、不確定性の存在しない、必然的な関係のこと。不確定性というのは、「予測」とは他の在りようでありうること。彼らは、「一定の範囲内に収束すると予測できる」とか言って、「予測」の範囲をかってに狭めておいて、ほらみてください不確定性がないでしょ、ってホラ吹いてるだけなのでは。例えば、波動が収束して、素粒子の位置が右の位置ではなくて、左の位置に確定したときに、左の位置に確定したこと、に対する原因は存在しない。すべてのことに原因があるといいながら、ここには原因が存在してない。もちろん、確定する以前は素粒子が波動状態で存在していたとか、観測をもって波動が収束したとか、背景的な原因はあるけど、それだけでは、その素粒子が左の位置に確定したこと、を説明できない。左の位置に確定したこと、の原因ではない。だからどうしても因果律が破れてくるところがあると思うんだけど、百科事典を読んでみたら、いやいや因果律が存在しないのではなくて、それは確率的因果律なんだー、って言ってて、嘘こけって思う。

宇宙規模で考えたらわかりやすい。ニュートン力学決定論的な因果律では、ラプラスの悪魔みたいに、ある瞬間の全宇宙の状態を観測できたら、次の瞬間の全宇宙の状態を予測できる。一方、確率的な因果律は予測できない。それも、精密に予測できないとかいうレベルではなくて、全く予測できない。というのも、ある瞬間の宇宙と次の瞬間の宇宙、みたいな巨視的なレベルの予測になってくると、ちょっとしたミクロレベルの確率論的な因果律の積み重ねが、結果として予測もつかない、とんでもない落差となって跳ね返ってくるから、決定論的な因果律世界線と比べると、とんでもない世界になってるので、原因と結果のあいだの不確定性がでかすぎて、とてもじゃないけど因果が成立してるとは言えないと思う。確率的な因果律は、因果律ではないと言いたい。
もっといえば、ヒュームのいうように、因果というものが空間的隣接性、時間的連続性をもっているのだとしたら、波動関数が収束するときに、全宇宙に広がっている量子の波動状態が、次の瞬間には一定の範囲に収束するんだから、これは空間的隣接性の否定そのもの。時間的連続性についても、ミンコフスキー空間におけるローレンツ変換で、時間が空間に転生することを思えば、時間の実在すら否定の対象。時間的、空間的隣接性が否定されている以上、因果律が瓦解していると思うんだけど。

神の存在を証明する4つの方法

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目的論的証明とは

世界は精巧で美しい。これほど緻密な世界が偶然生まれたとは考えにくい。背後に設計者がいるはずだ、それを神と名づけよう、と自然界の秩序や美しさから神の存在を証明する方法を、目的論的証明という。


例えば、道ばたに一個の時計が落ちている。拾い上げてみれば、その時計の内部では歯車の機構が、時間を表すという唯一つの目的のために、完全に調和して協働している。これほど緻密なものが自然界で偶然生まれるはずがない。誰か設計者がいて、目的をもって、作り出したものだろう、と設計者の存在に思い及ぶのが当然。
というか、この世界全体がそう。生物が存在するには、太陽、地球、重力、あらゆる要素が完全に調和しなければならないが、これほど緻密なものが偶然生まれるはずがない。これが偶然現れたということであれば、あまりに幸運すぎる。神が目的をもって作り出したに違いない。

目的論的証明への反論・否定

我々は、時計を作る人がスイスにいることを知っている。そして、時計が土の中から生えてきたり、卵の中から産まれることはないことを知っている。そういう背景情報があるおかげで、道ばたに時計が落ちていたときに、「これは自然界が偶然生み出したものではなく、設計者によって作り出されたものだ」と気づくことができた。このように一定の背景情報がなければ、結果から原因を推論することはできない。

しかし我々は、世界創生の背景情報を知らなすぎる。つまり、神が自然界を設計し、つくりあげている場面を現に見たことがない。結果が原因に結びつくところを一度も経験したことがないので、背景情報が不足しているから推論できない。

というか、世界が美しく精妙にできている理由は、こういっちゃなんだけど、偶然だ。ダーヴィンの自然選択説によってそれは説明できる。例えば、この世界に多様な生物がいる理由は、突然変異の改良点が「自然選択」によってうまく拾い上げられて受け継がれていくからだ。そして、その多様な生物がちょうどいい数で調和し合っているのは、「生存競争」によって種の個体数に限界が生じるからだ。

なぜ、目的論的証明っていう名前がついているのか、私にはいまいちピンとこなかったので、私だったら設計論的証明とかにするかな。

宇宙論的証明とは

全てのものには原因がある。しかし、無限にその系列を遡ることは不可能なので、それを打ち止める第一原因があるはずだ、それが神だ、と因果律から神を証明する方法を、宇宙論的証明という。

宇宙論的証明への反論・否定

全てのものには原因がある、と前提しておきながら、第一原因というそれ以上原因をもたない極点を措定するのは非論理的。

それに、原因の無限後退をどこかで止めたいのなら、神まで遡らなくても、ビックバンのところで止めたらいいじゃん。宇宙内の因果の系列が、まさにその始点に、収束して束になってるんだから。宇宙の全現象をビックバンから説明できる。それなのにもう一歩、奥にひっこんで神を措定するのは無意味。論理を節約しよう。ビックバンじゃなくて、量子の海とか、無とかでもいいよ。量子の海をつくりだした宇宙外の超空間、でもいい。そこから一歩奥に入って、わざわざ神を出してくる必要はない。また無限遡及が始まるから。「端的にそれがある」という状態が始点に措定されないと無限遡及が始まる。

もちろんここで、ビックバンを神と言い換えるのは問題ない。量子の海を神と呼んでもいい。超空間から宇宙がつくりだされたことを、宇宙外の超空間という神が宇宙をつくりだしたと言ってもいい。ただしその場合は、科学的に説明できる内容を、神という言葉でただ言い換えてるだけなので、情報量が0で無意味。そのことに我慢できずに、科学的な説明以上の神聖な意味をこめてしまうと、因果の系列を無視してしまうので矛盾する。

存在論的証明とは

神は完全である。完全というからには、神は「存在」しなければならない。なぜなら存在したほうが、より完全だからだ、と定義によっていきなり存在し始める神の存在証明を、存在論的証明という。

中世のアンセルムスが「それ以上大きなものを考えられないようなもの」が神であると定義したのが始まり。それは言い換えれば、神は「完全性」をもっているということ。自分が今パソコンの前で、「神は完全なんだねー。ふーん」って考えているとき、頭の中には、神についての意識が存在している。電位パルスか、意味表象か、なんでもいいけど頭の中に、神は私の意識態として存在している。意識において神が存在している。ここで、もし神が頭の外には存在しないのならば、それは完全とはいえない。なぜなら頭の中にもあって、外にもあるほうが、「より大きい」からだ。頭の外に神が存在するということは、この世界に神が存在しているということ。

存在論的証明への反論・否定

神は完全である、という定義が正しいとしても、単なる定義から実在を導き出すことはできない。そこで言われているのは、「もっとも完全なもの」という主語概念が、「存在する」という述語概念を含むということが言葉の上で説明されているだけだ。定義というものは、「仮に存在するならどういうものなのか」を説明するものに過ぎないのだ。

ここまでの3つは、なんとなく知ってたけど、哲学事典を読んでたら、もう1つあった。

道徳論的証明とは

徳にふさわしい幸福を与えてくれる神がいてくれるはずだ、というかいてくれないと困る!と道徳的要請から神の存在を証明する方法を、道徳論的証明という。

道徳に従って有徳な存在になったとしても、じっさいにそれに見合った幸福が与えられているかどうかわからない。幸福に「値する」人間になったということを示すだけだ。事実、我々の日常感覚は、有徳であることが、必ずしも幸福であることを意味しないように見える。それでもなおかつ道徳的実践を行うためには、徳と幸福の比例関係を保証してくれる存在が要請される。

道徳論的証明への反論・否定

これは証明ではなくて、願望表現に過ぎない。
というか、道徳的行為というものは、義務を義務として実行するからこそ価値があるのに、神の浄福のような報酬を目的に想定してしまっては、偽善なのでは?
この反論部分は、なかなか探しても見つからなかったので、私が勝手に書いたから、間違ってる可能性が高い。

 

『哲学のアポリア』p.19-34参照。この本は使えるな。

 

 

 

 

▼2018年11月12日追記

一神教の神は、宇宙外部に存在する。多神教の神は、宇宙内部に存在する。汎神論の神は、宇宙そのものが神。仏教には神はいない。神すら解脱の対象。解脱によってこの世界から消失するのが目的。

こんな感じで、神のありかを4つにわけると、わかりやすいなって思った。ただし、一神教のなかでも有神論は、神は宇宙外部にいながら、宇宙内部に干渉しているという。たまに奇蹟という形をとって、因果律を停止して宇宙内部に入ってきたり、なぜか宇宙外部にいる神に人の祈りが届いたりする。超越しながら内在しているって感じかな。

デカルトの方法的懐疑は失敗してると思う

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大学3年生のときに、必修科目の授業を放棄して文学部の哲学講義に潜り込んでたことがあった。

哲学史の授業は、たいてい古代ギリシャから始まるか、中世のデカルトから始まるんだけど、そのときの授業はデカルトからだった。

 

「まゆつばかと思われるかもしれないけど…」「馬脚をあらわすことは明らかなんですが…」って、先生がいつも申し訳なさそうに講義してて、「先生!そんなの気にしなくても大丈夫だよーー!」って言いたくなるくらい、知的謙抑がすごかった。

「延長」概念でキュンとした話

これ私だけかもしれないけど、デカルトの「延長」概念を聞いたときに、これこれ!こういうのがしたかったんだよー!哲学到来!始まった!って思ったよ。一人で。

 

この世界を見渡してみたときに、目の前に机があって、私には心がある。
机は見えるのに、心は見えない。

 

机は分子の集合体でできてるけど、心はどういう風にできてるんだろう、心の本質は何だろう、それがないと心が成立できないようなものって何だろう、って考えてみたときに、デカルトは、思惟、って答える。
「おーーー、これはわかる気がするな!心の本質は、思惟。心の核みたいなものは、思惟だよな、うん」って思った。

 

それに対して、じゃあ物体の本質は何だろう、それがないと物体が成立できないようなものって何だろうって考えてみたときに、デカルトは、延長、って答える。
「え、延長!?は?言いたいことわかるような、わからないような、のどの奥がむずむずするんだけど、確かに、机の中の分子の結合形態を考えてみると、その一箇所の空間に分子が居座って、他の分子を押しのけているわけだから、その一箇所には分子が拡がっているってことだから、延長って言ってもいいかもしれない!」

 

っていう感じで、ふつうは物質の本質は原子とか分子って答えたくなるところで、延長とかいう抽象概念で説明することができてるから、絶妙な言葉で表現してるなって思った。これが哲学なんだなあって、思った記憶がある。

 

ここでは「本質」って言ったけど、デカルトは「属性」って言葉を使っていて、そのときは気づかなかったけど、属性とか実体とかいう対概念を使えば、色々と便利なことがわかった。
それとこの論証過程は、私が勝手にわかりやすいように言い換えてみただけだから、厳密な順番とは違うし、デカルトは原子を否定してるので正確な表現ではない。

デカルトの方法的懐疑のまとめ

デカルトの方法的懐疑を簡潔にまとめてみる。

もし私が夢の中にいたり、悪魔によって現実にはないものを見せられたりして、欺かれているのだとしても、欺くには欺かれる対象がいるのだから、欺かれている対象であるところの私は存在する。
何かを欺かれたり、疑っている、つまり何かを思っているかぎりにおいて、私は存在する。

世界の全てのものを疑ってみても、そうして疑っている限りにおいては、私は存在するけど、1秒前の私は、悪魔によって勝手に記憶を植えつけられて仮構された私なのかもしれないから、今この瞬間疑っている私しかいないんだよ、と、ほとんど情報量0の事実にたどり着いて、この事実だけは信頼できる確固とした存在なのだと主張した。

 

デカルトの推論を、もうちょっと詳しく、まとめてみる↓

 

遠くの人が近づいたら、じつは人形だったということがあるように、遠いものに関する知覚は信頼できない。

逆に言えば、近い知覚は信頼できる

近い事物を知覚できていると思っても、それは夢かもしれないじゃん

夢の中であったとしても、知覚に関係なく独立して存在する幾何学的法則は信頼できるでしょ

いやいや、2+3=、と計算しようとしたまさにその瞬間、悪魔によって答えをすりかえられているのかもしれない。そして、そのすりかえることによって、矛盾のでないように、全世界の事象を統一的法則にしたがって整理しなおしてるのかもしれない

そういうふうに欺かれているのだとしても、欺かれている私はいる、はい論破

デカルトの基礎付け主義における循環論法

ところで、疑っているときには疑っている私がいる、とデカルトが言うとき、それをかなり真実味のある確実なものとして、彼は捉えているし、まあたしかにそうだよなと思う。
さらにここで彼は、それは「明晰判明な認知」ができている状態だという(この言ってる意味をつかむのが私は難しかった)。
ここから暴走が始まるんだよな。
明晰判明に認知できるもの(私の存在)が真実だとわかったのだから、明晰判明に認知できるものは、全て、真実であると、言い始める。

 

ここでただちに反論できるのは、「全て」っていうのは言いすぎでしょって。
自分の心の状態を明晰判明に認知できるからといって、一足飛びに、自分以外の事実も明晰判明に認知できるとはいえない。

 

とにかく、ここでは黙って見過ごすとして、このあとすぐにデカルトは神の存在証明をするんだけど、そのときにこの明晰判明の認知という武器を使ってくる。


これも見過ごすとして、問題なのはこのあとに、明晰判明の認知の正しさをダメ押しで証明しようとして、神の存在を引っ張ってくるから、循環論法になってるってこと。

その理屈がおもしろい。

 

デカルト曰く、結果は原因より多くなることはできない。なぜなら、もし結果の大きさが原因より大きいというのであれば、原因に多くの原因外のものが付け加わらないと、結果の大きさと同じ大きさにはなれないので、多くのものは無から生じたことになる。無から何も生じないということは、明晰判明の認知によって明らかである。したがって、原因のほうが常に大きくないといけない。

原因>結果、はいいけど、原因<結果、はダメ。原因はとにかくパワーをもつというのが、この時代の考え方だった。第一原因論の文脈なんだろうけど。

 

つまり、「結果の実在性は、原因のうちにそれ以上の大きさで含まれてないといけない」という因果原理が採用される。

 

ところで上記では、疑ってる私の存在だけは確かだよと証明する推論過程で、外部世界の知識一般を全て否定して、その論理的帰結として、疑ってる私の確実性が証明されたのだけど、いやいやちょっと待てよと。外部世界の知識一般を否定するということは、神や因果原理も否定してるよねと。

それなのにデカルトは、神の存在を証明するときに、「因果原理」を使ってしまってる。

要するに、自分を欺いてくる悪魔も、神も、因果原理も、何も証明できていない。疑ってる私だけは確かにある。だけど情報量が0。

 

このデカルトの立場は、「知識の内在主義における基礎付け主義」に分類される。これだけは確かだろうという確固とした1つのものを見つけ出してきて、あとはそこから全て演繹しようという態度のこと。

 

 

『知識の哲学』p.109-130参照。この本のおかげで、少しだけ分析哲学になじめた。

 

ここからは私の考えることだから、間違ってる可能性がかなり高いと思う。

 

実はこの世界の実相は、培養液の中に浸けられている脳の見る夢で、高度な知性をもつハツカネズミたちによって、全ての培養槽の脳状態が管理されているとする。デカルトによれば、疑っているかぎり、私は存在する、ということだけど、ネズミが私の脳をいじって、「何かを疑っているときの脳状態」を正確に再現したとき、私はたしかに何かを疑っているけど、それは「疑わさせられている」。
したがって、私の言葉で正確にデカルトの言葉を言い換えると、疑っているかぎり、あるいは、疑わさせられているかぎり、私は存在する、になると思う。欺かれている、と、疑わさせられている、というのは似てるけど違うよね。