星の動く音がうるさい

2016年からニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどい

デカルトの方法的懐疑は失敗してると思う

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大学3年生のときに、必修科目の授業を放棄して文学部の哲学講義に潜り込んでたことがあった。

哲学史の授業は、たいてい古代ギリシャから始まるか、中世のデカルトから始まるんだけど、そのときの授業はデカルトからだった。

 

「まゆつばかと思われるかもしれないけど…」「馬脚をあらわすことは明らかなんですが…」って、先生がいつも申し訳なさそうに講義してて、「先生!そんなの気にしなくても大丈夫だよーー!」って言いたくなるくらい、知的謙抑がすごかった。

「延長」概念でキュンとした話

これ私だけかもしれないけど、デカルトの「延長」概念を聞いたときに、これこれ!こういうのがしたかったんだよー!哲学到来!始まった!って思ったよ。一人で。

 

この世界を見渡してみたときに、目の前に机があって、私には心がある。
机は見えるのに、心は見えない。

 

机は分子の集合体でできてるけど、心はどういう風にできてるんだろう、心の本質は何だろう、それがないと心が成立できないようなものって何だろう、って考えてみたときに、デカルトは、思惟、って答える。
「おーーー、これはわかる気がするな!心の本質は、思惟。心の核みたいなものは、思惟だよな、うん」って思った。

 

それに対して、じゃあ物体の本質は何だろう、それがないと物体が成立できないようなものって何だろうって考えてみたときに、デカルトは、延長、って答える。
「え、延長!?は?言いたいことわかるような、わからないような、のどの奥がむずむずするんだけど、確かに、机の中の分子の結合形態を考えてみると、その一箇所の空間に分子が居座って、他の分子を押しのけているわけだから、その一箇所には分子が拡がっているってことだから、延長って言ってもいいかもしれない!」

 

っていう感じで、ふつうは物質の本質は原子とか分子って答えたくなるところで、延長とかいう抽象概念で説明することができてるから、絶妙な言葉で表現してるなって思った。これが哲学なんだなあって、思った記憶がある。

 

ここでは「本質」って言ったけど、デカルトは「属性」って言葉を使っていて、そのときは気づかなかったけど、属性とか実体とかいう対概念を使えば、色々と便利なことがわかった。
それとこの論証過程は、私が勝手にわかりやすいように言い換えてみただけだから、厳密な順番とは違うし、デカルトは原子を否定してるので正確じゃない。

デカルトの方法的懐疑のまとめ

デカルトの方法的懐疑を簡潔にまとめてみる。

もし私が夢の中にいたり、悪魔によって現実にはないものを見せられたりして、欺かれているのだとしても、欺くには対象がいるんだから、欺かれている対象であるところの私は存在する。
何かを欺かれたり、疑っている、つまり何かを思っているかぎりにおいて、私は存在する。

世界の全てのものを疑ってみても、そうやって疑っている限りにおいては、私は存在するけど、1秒前の私は、悪魔によって勝手に記憶を植えつけられて仮構された私なのかもしれないから、今この瞬間疑っている私しかいないんだよ、と、ほとんど情報量0の事実にたどり着いて、この事実だけは信頼できる確固とした存在なのだと主張した。

 

もうちょっと詳しく、まとめてみる↓

 

遠くの人が近づいたら、じつは人形だったということがあるように、遠いものに関する知覚は信頼できない。

逆に言えば、近い知覚は信頼できる

近い事物を知覚できていると思っても、それは夢かもしれないじゃん

夢の中であったとしても、知覚に関係なく独立して存在する幾何学的法則は信頼できるでしょ

いやいや、2+3=、と計算しようとしたまさにその瞬間、悪魔によって答えをすりかえられているのかもしれない。そして、そのすりかえることによって、矛盾のでないように、全世界の事象を統一的法則にしたがって整理しなおしてるのかもしれない

そういうふうに欺かれているのだとしても、欺かれている私はいる、はい論破

デカルトの基礎付け主義における循環論法

ところで、疑っているときには疑っている私がいる、とデカルトが言うとき、それをかなり真実味のある確実なものとして、彼は捉えているし、まあたしかにそうだよなと思う。
ここで彼は、それは「明晰判明な認知」ができている状態だという(この言ってる意味をつかむのが私は難しかった)。
ここから暴走が始まるんだよな。
明晰判明に認知できるもの(私の存在)が真実だとわかったのだから、明晰判明に認知できるものは、全て、真実であると、言い始める。

 

ここでただちに反論できるのは、「全て」っていうのは言いすぎでしょって。
自分の心の状態を明晰判明に認知できるからといって、一足飛びに、自分以外の事実も明晰判明に認知できるとはいえない。

 

とにかく、ここでは黙って見過ごすとして、このあとすぐにデカルトは神の存在証明をするんだけど、そのときにこの明晰判明の認知という武器を使ってくる。


これも見過ごすとして、問題なのはこのあとに、明晰判明の認知の正しさをダメ押しで証明しようとして、神の存在を引っ張ってくるから、循環論法になってるってこと。

その理屈がおもしろい。

 

デカルト曰く、結果は原因より多くなることはできない。なぜなら、もし結果の大きさが原因より大きいというのであれば、原因に多くの原因外のものが付け加わらないと、結果の大きさと同じ大きさにはなれないので、多くのものは無から生じたことになる。無から何も生じないということは、明晰判明の認知によって明らかである。したがって、原因のほうが常に大きくないといけない。

原因>結果、はいいけど、原因<結果、はダメ。原因はとにかくパワーをもつというのが、この時代の考え方だった。第一原因論の文脈なんだろうけど。

 

つまり、「結果の実在性は、原因のうちにそれ以上の大きさで含まれてないといけない」という因果原理が採用される。

 

ところで、疑ってる私を証明するときに、外部世界の知識一般を全て否定した論理的帰結として、疑ってる私が出てきたんだけど、外部世界の知識一般を否定するということは、神や因果原理を否定することになる。

それなのにデカルトは、神の存在を証明するときに、「因果原理」を使ってしまってる。

要するに、自分を欺いてくる悪魔も、神も、因果原理も、何も証明できてない。疑ってる私だけはあるけど、情報量が0。

 

このデカルトの立場は、「知識の内在主義における基礎付け主義」に分類される。これだけは確かだろうという確固とした1つのものを見つけ出してきて、あとはそこから全て演繹しようという態度のこと。

 

『知識の哲学』p.109-130参照。この本のおかげで、少しだけ分析哲学になじめた。

 

ここからは私の考えることだから、間違ってる可能性がかなり高いと思う。

 

実はこの世界の実相は、培養液の中に浸けられている脳の見る夢で、高度な知性をもつハツカネズミたちによって、全ての培養槽の脳状態が管理されているとする。デカルトによれば、疑っているかぎり、私は存在する、ということだけど、ネズミが私の脳をいじって、「何かを疑っているときの脳状態」を正確に再現したとき、私はたしかに何かを疑っているけど、それは「疑わさせられている」。
したがって、私の言葉で正確にデカルトの言葉を言い換えると、疑っているかぎり、あるいは、疑わさせられているかぎり、私は存在する、になると思う。欺かれている、と、疑わさせられている、というのは似てるけど違う。