星の動く音がうるさい

2016年からニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどい

量子力学は自由意志を救済するか

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決定論

人は自由に、なにかを選択できる。

コーラを今飲んだのは、私が意志したからであって、誰にも強制されたわけではない。
しかし、選択の原因を、大脳生理学や物理学の見地から、精密に列挙していけば、その選択も先行する何らかの原因によって必然的に引き起こされた結果に過ぎないとわかる。

結果には、必ず原因があるんだから当たり前の話。技術的には難しいとしても、全ての原因がわかれば、結果がわかる。
つまり、宇宙の状態を全て測定して、ある時点の原因を全て特定できれば、それ以後の未来の結果がわかるということ。
もっと言えば、ビックバンのときには全ての結果が集まっているので、そこで計測したら未来の出来事は全てわかる。
未来の出来事は全て、ビックバンのときに決定されている。

今この瞬間の私の選択は、ビックバンのときに既に決定されているんだから、もはや自由な選択とは言えない。

心理的に自由だと思ってるだけのことで、ほんとうは自由ではない。

技術がもっと進展して、観測装置がもっと発達して、多くの原因を特定できるようになるまで、わからない原因を自由だと思ってるだけのこと。
したがって、なにかを自由に選択しているように見えても、ほんとうは決定されている、というのが決定論

コーラを今飲んだのだって、ビックバンのときに決定されている。

この決定論と自由意志論の対立は、西洋哲学史の永久のテーマになっている。でも、こんなん子供でもわかることで、結果には原因があるという因果法則が現にこの世界にはあるんだから、決定論で決まりじゃんって思う。

決定論

しかし、現在の物理学では、量子力学的な非決定性が残るので、原因を全て特定することはできないとわかっている。

特定できない原因が、穴ぼこみたいに、この世界には存在してる。

結果には必ず原因があるなんて、もう言えない。

この世界には空白がある。

だから、すでにこの時点で、決定論は敗北している。

もちろん、選択するときには色んな原因が「影響」はしているけど、量子力学的な非決定性に影響されている部分もあるんだから、もう決定論とは言えない。

なので、量子力学的な非決定性によって選択したんだよと言っちゃえば、それは選択に原因がないということを意味するので、原因がないという自由性で選択したと言える。
ああ、これで人間にはちゃんと自由意志があるんだ、もう安心だって思うかもしれない。私はそう思ってた。

サイコロ

脳科学等の科学的知見にあわせて、自由意志論を語ろうとすれば、「量子力学的な非決定性をもってふるまうニューロンが脳内に存在している」と考えないといけない。
そのニューロンによって、決断をしてることになる。
そして今、そのニューロンがぶっ壊れたとして、代わりに量子的非決定性をもった物理装置を脳内に埋め込んでみる。例えば、シュレディンガーの猫のときのように、ラジウムガイガーカウンターを使った装置。
というか、それは脳内に埋め込む必要はなくて、ガイガーカウンターで計測された値を脳内に送り返す装置を作ったとしても、まったく同じ機能が保証される。
そういうわけで、外部にあるラジウムのランダム性抽出機によって、行為を操縦されることになる。
ランダムでパチンと動き方が変わってくる、実験マウスと同じ有様が、自由であるといえるのだろうか。

という風に、ちょっと誇張された例だけど、結局、量子力学の非決定性によって意志的決意性が決定されるのだとしたら、頭の中にサイコロがあるのと同じなので、そういう偶然の結果を、自由な選択とみなしていいのかという問いが出る。

 

 『自由の条件』p.434-435参照。数年モヤモヤしてたことの問題の所在が2ページでわかった。

 

 

 

▼2018年11月12日追記

今になってこの記事を読み返したら、何から何までわかりにくい文章で、うんざりする。

この記事を書いた当時は、脳内で、量子的効果が発現することをイメージしながら書いていたけど、あとになっていろいろ勉強してみると、それはちょっと難しいのかもしれないなってわかってきた。

というのも、量子的効果をマクロスケールで発現させるためには普通、規則性のある構造や非常に単純な系を、かなりの低温、例えば絶対零度近くまで冷やさなければならないので、常温である脳では作用しにくいとのこと。

この分野は、量子脳理論という分野で、汎経験説の一種なので、マイナーな分野なんだーって思うと、興味が失せるところがあるよね。

そういうわけで、自由意志の特権性みたいなのを確保する時に、量子論的な不確定性を利用しちゃうと、ちょっとオカルト的なところにいっちゃうのかなあと思って悩み中。

もうね、ここまでくれば、一気に決定論のほうに振り切ってもいいかなという心理状況がないわけではないけど、そうだとしてもブロック宇宙説で因果性を否定するような、ぶっ飛んだやり方で肯定していきたいなと思ってるところ。決定論という枠組み自体を崩壊させたい。

あ、そういえば、よくある批判として、波動関数の収束をもってして因果の成立だという批判がある。「一定」の範囲に波動が収束するのを予測できるのだから、原因と結果の関係は崩れてないじゃんって、よく言われるけど、えーなんかずるくない?と。わたしが言ってる因果律は、ニュートン力学における決定論的な因果律のことなの!機械論的自然観における決定論的な因果律が、量子力学における確率的因果律によって否定されてるじゃんってこと。
そもそも、因果というのは、不確定性の存在しない関係のことでしょ。不確定性というのは、「予測とは他のようでありうること」。つまり、ある一定の範囲内に収束すると予測できるという言い分は、「予測」の範囲をかってに狭めておいて、ほらみたことか因果律が成立してるじゃんって、予測の密輸入というか、微視的な因果の自殺でしょ。
もっといえば、ヒュームのいうように、因果というものが空間的隣接性、時間的連続性をもっているのだとしたら、波動関数が収束するときに、全宇宙に広がっている量子の波動状態が、次の瞬間には一定の範囲に収束するのだから、これは空間的隣接性の否定そのものでしょ。時間的連続性についても、ミンコフスキー空間におけるローレンツ変換で、時間が空間に転生することを思えば、時間の実在すら否定の対象。時間的、空間的隣接性が否定されている以上、因果律が瓦解していると思うんだけど。