星の動く音がうるさい

ニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどい

毎日3時間、ぶっ通しで読書するとどうなるか

今やってること

パソコンとスマホを排除して、毎日3時間机から離れずに、「最優先」の本を読書する

 

 

結果(導入して一ヶ月目)

死にたくなくなる。「今日も目標を達成できなかった。何やってんだろう」と寝る前に布団の中で死にたくなる現象が減った。
・4日以内に、読みたい本が片づく。
・実験7日目までは、読んでいる途中で注意が散漫になって、1時間に3ページすら進まないことがあったのに、8日目からは、なぜか注意の持続力がついて読むスピードが上がった。
1日10時間読書できるようになった。1日10時間以上の読書ができたのは、人生では4日連続が限界だったのに、導入した直後12日連続でできたので、読書時間の総量を押し上げる波及効果があった。


先行者

そもそも3時間主義を開拓したのは、この方。
平日3時間ぶっ通しで文章を書くという習慣を導入した結果、導入前には3分作業して10分インターネットに没頭という状況だったのが、導入後には1週間あたりの生産性が上がったとのこと。なぜか全体の生産性が上がるという点で、私と同じ現象が起きてる。

 

先行者

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また歴史上の偉人にも、3時間ぶっ通しで活動する人が、異常に多いとわかった。
彼らの習慣は多様な一方で(例えば、朝起きた後に鍋や釜に向かって「おはよう」とあいさつしたり、仕事の気分を盛り上げるために手紙を一通か二通燃やしたり、仕事部屋の引き出しに腐ったリンゴをたくさん入れたりして、皆バラバラだけど)、いったん机の前につくと、3時間ぶっ通しで書くというのは、驚くほど共通している。
4時間の人や5時間の人もいるけど、やはり3時間が多い。
3時間以下はあまりいない。
一方、マルクスのように、開館から閉館まで一日中図書館にいて革命闘争の研究に人生を捧げるというような激烈な書き手もいるけど、若死が多い。
「3時間」という作業量は、気分よく継続する一つのポイントだと思った。

 

細かいルール

できるだけ、意志の力に頼らない方法を追求する過程で、いくつかの細かなルールが習慣化してきた。

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  • 机に置くのは、今から読む最優先の一冊だけ。手始めにどうでもいい軽めの本から読もうしたりせずに、初っ端から核心に入らないと後悔する。机の上からは本以外のもの、とくにパソコンとスマホを排除して、視覚ストレスを消すことによって最優先事項を優先する空間ができる。一冊とだけ向き合う。もうこれ禅だよ。そこに居さえすれば義務を果たし続けている状態であるという意味不明な確変状態が生じる。スマホが視界内に存在するだけで、ドーパミンが分泌されるという研究結果あり。このときの写真では右上にメモ用紙が散らばってるけど、このあと机にひっかけるハンギングボックスを買って、机の下に置けるようにしたよ。f:id:jougetu:20160304180031j:plain

  • メモはパソコンで書かない。メモはメモ用紙に書く。ポメラでもいい。手の届く位置にパソコンとスマホがあると必ず死ぬ。意志でどうにかできる問題ではないので、物理的に排除する。3箇条のなかで一番つらいのは、3時間座ってることではなくて、パソコンとスマホを引き離すこの作業。パソコンを引き離して机の前に座れた時点で、読書の99%が完了する。スマホは途中で解約して除去した。
  • 3日間、同じ本を読まない。ふつうに飽きる。
  • 物理で殴る。最大の効果があったのは、このクッション。腰を沈めると、押しのけられたビーズがひじのあたりまで盛り上がってくるので、読書するときにはひじを乗せたまま快適にできる。休憩がいらないって感覚をどう伝えたらいいのかわからないけど、私はこれさえあれば、無限に読書できると確信した。事実、姿勢を変えたりはするけど、10時間ぶっ続けで読書しても全く疲れない。特に、背中とクッションのあいだに布団をはさんで調整してやると、まるで快楽椅子に座ってるように苦痛がない状態になる。その布団の端っこを、お腹の上に巻くようにしてもってきて、その上に本を置いてやれば、真正面の目線に合致するから、首を傾けたり、眼球を動かしてやる必要がない。普通だったら、首のうしろが疲れてきたり、腰がこってきたりするのに、全く微動だにせずに読書するマシーンになってしまった。これはこの記事で一番伝えたかった。というのも、何日間もいろいろ調べまくって、クッションを探してたんだけど、読書に適しているかどうかについては、具体的な感想がないんだよね。だから店頭に行って、全部座りながらやっとのことで選んだ。
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  • 石のように、指一本動かさずに読む。7日目にこれを発見して以来、読書中の集中力が劇的に向上した。本を開いて字面を追っているのに、どうしても内容が入ってこないときは、絶対に動かない。顔や指も動かさない。身体を止めて、目だけ動かして本を読んでると、ある時点でカチッと歯車が噛んで、内容が入ってくるということがわかった。ただし、動かずに静止していると、身体には苦痛が生じるようで、なぜか軽く息苦しくなる。胸の辺りが苦しくなって呼吸が浅くなる。苦痛をともなってるから信頼できる。集中できないときには、この読み方を取り入れると、うまく流れに乗れる。何度も試してみたけど、私には再現性があった。意志の力に頼らずに、身体の単純な拘束によって、集中力を取り戻せた。「時間をかけて断続的に、具体的に苦痛を与えることによって、身体は初めてそのメッセージを認識し理解する」と村上春樹が言っていたけど、「断続的」というのがここでは大切で、例えば、「この1ページ読み終わるまで、静止する」という風に区切りを設けてやらないと疲れる。

  • 息を止めて読む。上記と併用、効果同様。
  • 「読書しなくちゃ」と思ったときは、絶対に動かない。私がこうしているあいだにも、みんなの人生は進んでるんだろうな、何やってんだろと思うけど、焦れば焦るほど、どうでもいい作業に現実逃避してしまう。そういうときは、15秒動かない。パソコンをしてるのなら、マウスを持ったまま、身体を停止させて、まつげも動かさない。そうすると、不思議とやる気が出てくる。動きたくなる。静止してから3秒くらいしたら、すでにやる気が出てくる。動かないというのは、じつは不必要事項を排除し続けているという形で動いている。
  •  音楽は聴かない。これはほんとに大事。村上春樹も音楽は聴かないとのこと。
  • 生活のあいまに、歩いて、脳の海馬からシータ波を出す。一人暮らしでも、スペースを空けて、部屋をぐるぐる歩く。歩きながら携帯を見たり、単語帳を暗記したりせずに、ただ黙々と歩く。少しでも歩くことができれば、脳の海馬からシータ波が出て瞑想状態になる。この時点で読書のやる気が出ることもあるけど、まだ足りないなら、20分でベータエンドルフィン、25分でドーパミン、40分でセロトニンが出るまで歩く。やる気が出れば、パソコンを排除できる。すでに立ち上がっている状況にあるので、そのままパソコンを別の場所に持ち運べばいい。45分歩いてもダメだったら、あきらめる。妄想したり、音楽を聴いたりしながらでもいいから歩いていると、ときどき、パソコンの排除について思いが及ぶので、そういうわずかな芽を大切に育てていく。私は高校生のときに、シータ波優位の脳状態が暗記作業に適しているとニュースで聞いて以来、歩きながら英文の音読をしたり、社会の語句暗記をしたりしてきて、最近のニュースでも禅宗のお坊さんたちが寺の中で歩きながらお経を読んでたから、ぐるぐる歩くときには何か勉強をしながらでないと罪悪感を感じてしまうんだけど、でも、歩くだけでも着実に事態は改善している。読書に向かって準備が整っていくんだから。スタートアップの時間が必要。読書したくないという欲求をすぐに変えることはできないので、歩きたいという欲求にずらす。欲望の中心点をずらすのが自由拡大の原則。代わりに掃除をするのもいいかもしれない。掃除をすると側坐核が刺激されるから、やる気が出る。テスト勉強のときには、掃除をしたくなったほうがいい。ものを一つ片付けるという成功体験を積み続けることで、脳の報酬系回路が働いてくる。

僕はよく、何をしたらいいかわからないっていう学生には、「キッチンの掃除をするといいよ」っていうんですよね。

これ、意外に本質的だと思うんです。つまり、目に見えて成果がすぐに現れることを繰り返しやっていると、世界に自分が関わっている感じが出てくるんですよ。俺の人生意味がある、みたいな。特にウツの時とかいいんですよね。三角コーナーの掃除とか。そうすると、「大丈夫、俺、ちゃんと世界に意味を与えてる」みたいなふうになっていって。徐々に徐々に、世界にいろんな意味が結ばれてくるっていうことがあったりする。「やりたいこと」が分からなくて、ウツで、っていう方がいれば、だまされたと思って試してみてください(笑)

これが自由になるための実存的条件。もう1回いうと、欲望の中心点を結ぶということ。そしてそれがつら過ぎたら、それを変えるということ。これは自由の大きな条件かなというふうに思います。

【対談】竹田青嗣×苫野一徳⑦「やりたいこと」の見つけ方

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  • 二冊以上、机に置いてもいい。ほんとうは冒頭のように机上の一冊というのが理想だけど、実験の結果、数冊の日をたまに組み入れても、気分よく持続できるとわかった。上の写真のように、認識論という分野で、同じ程度の負荷の数冊に絞って、何日かやってみた。脳にとっては、色んな本を組み合わせるほうが飽きないからいいと聞いたことがある。たしかに、本を切り替えるときには、読んでいた本の束縛からいったん解放される爽快感が出るので、切り替え自体の快感は得られた。しかし、どっちみち切り替えた本も、もとの本と同じ程度の負荷なので、すぐにもと通りのつらさになる。さらに、本を切り替えるタイミングを見極めて決断しないといけないという判断コストもかかる。それに対して、一冊に絞ってそれだけをガツンと進めるのは、進んでるのが目に見えてわかるのでやる気がでる。つまり、切り替え自体の爽快感を得るか、一冊が進む爽快感を得るか、の二択。集中力が切れやすい日は、数冊でやるとうまくいく気がする。切り替えるタイミングは、20分以上過ぎたときのほうがいい。
  • トイレは行ってもいい。

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  • コーヒーやお茶は入れ放題。右端が入れ放題コーナー。机の下も服の入れ放題コーナー。
  • 読書を終わるときは、「いいなあ」と思う一文を見つけて、浸りながら本を閉じる。とりえさんに見習った。

一つ、自然と身に付いた区切り方がある。 「いいなあ」と感じた言葉や仕草、描写が出てきたら区切りをつけ、本を閉じる。 そしてその「いいなあ」を、明日続きを読むまでに、自分の中に取り込む努力をする。 丸一日かけて、よく咀嚼して、ためしに真似して使ってみるなどして遊び、味わい尽くし、少しでも吸収する。

ちびちび読書法 ~小説 - とりえかんざし

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  • 社会人になったら、1時間でやる。この記事では3時間という目安を強調してしまったけど、充実感を得るには、1時間でもいいと思う。スカッとした爽快感はないけど。社会人だったときは、帰ったあとはくたくたになって、1時間すら読書できなかった(どうしてもできなかった)ので、3時間もできるはずがない。そこで思ったのは、「適度な負荷」を感じられればいいということ。集中力の切れるタイミングには波があって私の場合は開始6分、12分、20分、35分、45分の時点によく切れるけど、それが来たときに15秒くらい受け止めて、ねっころがりたい衝動を抑えて味わってると、すっと抜けていく感覚があるんだけど、たぶん、この波の負荷をある程度感じることで、逆に爽快感を感じることができてるんだと思う。1時間もあれば、4回は波がある。私としては、やっとエンジンが温まってきたなってところで切り上げるはめになるから、うずうずしたまま終わるけど、充実感はある。充実感を得られるとわかっていれば、読書する気にもなるよね。
  • 二日休んでもいい。私の場合は、三日休んでしまうと身体から習慣の「同一性」のようなものが、すっぽり抜け落ちてしまうのがわかる。休んで二日目はまだ密度が保たれてるけど、三日目に入ると炭酸が抜けてる。だから二日休むのはセーフにしてる。村上春樹の場合は「絶対的な練習量は落としても、休みは二日続けないというのが、基本的ルールだ」ということで、休むのは一日だけらしいよ。絶対に一日も休まない、という完璧主義では、かえって習慣形成が阻害されるので、休むときは休む。統計的には、身体のことについて習慣づけるには21日間必要(人によっては最大66日必要)で、そのうち1日サボってしまう日があっても全体として一貫性があればいい。

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  • 習慣が途切れてしまったときは、基本書を読む。私の基本書は、村上春樹のエッセイにしてる。小説上の人物や彼自身の、タフな姿勢の原型が、この一冊に集約されている。

こうして我慢に我慢を重ねてなんとか走り続けているうちに、75キロのあたりで何かがすうっと抜けた。そういう感覚があった。「抜ける」という以外にうまい表現を思いつけない。まるで石壁を通り抜けるみたいに、あっちの方に身体が通過してしまったのだ。いつ抜けたのか、正確な時点は思い出せない。でも気がついたときには、僕は既に向こう側に移行していた。それで「ああ、これで抜けたんだな」とそのまま納得した。理屈や経過についてはよくわからないものの、とにかく「抜けた」という事実だけは納得できた。

それからあとは、とくに何も考える必要はなかった。もっと正確に言えば、「何も考えないようにしよう」と意識的に努める必要がなくなった、ということだ。生じた流れを、自動的にたどり続けるだけでいい。そこに身を任せれば、何かの力が僕を自然に前に押し出してくれた。

こんなに長い時間走り続けているのだから、肉体的に苦しくないわけがない。でもそのころには、疲れているということは、僕にとってそれほど重大な問題ではなくなってしまっていた。疲弊していることが、いわば「常態」として僕の中に自然に受け入れられていった、ということかもしれない。

p152-153「走るときについて語るときに僕の語ること」村上春樹

現実が夢でないことを証明せよ

今朝、この記事をtwitterで見た。

上智大学(大学院?)の哲学科の入試問題で、「現実が夢でないことを証明せよ」という問題が出たらしい。

 

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まず考えられるのは、「夢は自分で操作できない」というコントロール不能性。

これが前提になると思う。
夢の中にいるときは、「今、夢の中にいるな」って思えないし、思い通りに作りかえたりできないという前提。夢の中でどうあがこうが、現実だと思ってしまうから、深い夢はこわい。もちろん「今、夢の中にいるな」ってわかるような浅い夢(明晰夢)はあるけど、ここで問われてるのは、現実の現実性と対置するところの虚構性を持っている夢、つまり操作不能な深い夢だというのが出題者の意図だと思う。だから、浅い夢と深い夢を、まず分けないといけないかな。

 

そうするとこれは、知覚像の問題だな、と思った。

 

要はこの上智大学の問題は、われわれの知覚像と世界のずれを指して、「君たちが見ている知覚像は現実を反映していないんだから夢を見ているのと同じじゃないか」と言わんとしてる問題だと思う。

どういうことかというと、そもそも我々一般人の99パーセントは素朴実在論者であって、客観的実在がまず外に厳然として存在すると考える。自分が目をつむっても、寝ている間でも、外には世界が存在すると考える。その客観的実在であるところの世界の側から、光の波長なり、アンモニア分子なりの刺激が、自分の感覚器官に伝来してきて、世界を認識することができる。
例えば、机の上にあるリンゴにぶつかって反射した6000オングストロームの光の波長が、目の網膜に入って神経回路を起動して、もろもろの化学作用が脳みそまで空間的に連続して、一定の脳状態を引き起こして、赤いリンゴの知覚像が生じる。
さらに、リンゴを目では確認してるけど意識を集中させてないから見えなかった、という、見えども見えずというウッカリミスがあるように、「リンゴがある!」と思うには、リンゴの知覚像があるだけではダメで、さらにリンゴの知覚像を意味理解するという意識作用がいる。スポットライトをあてる、みたいな。
つまり、意識の対象としての、客観的事物が外にあって、それに対して知覚像という意識内容が生じて、その知覚像から意味理解を得るという意識作用がある、この3つの「意識対象、意識内容、意識作用」という三項図式のカメラモデルが素朴実在論に前提されている。

 

そうすると、ここで問題になるのは、知覚像は、生の世界に触れてない、幻影だという問題。

リンゴを見るときに、われわれは「知覚像越し」でしか見ることができない。邪魔だよ、知覚像が。あいだに入ってきてんじゃないよ、と思う。生の現実にふれることができない。知覚像をひっぺがしてみたら(そんなことできないけど)、ほんとはリンゴはめちゃくちゃなキモイ姿をしてるかもしれなくて、アメーバがリンゴをリンゴとして認識できないように、われわれの知覚も限定されている。われわれはリンゴを見ながらリンゴを見てない、知覚像しか見てない。カントのいう物自体と現象の関係とか、プラトンのいうイデアと現実の関係(といってもプラトンの場合は、心の目でイデアを見れるんだったかな)に似てる。

 

つまり、われわれは幻影を見ている。全ては虚妄であると。もう仏教だよこれ。

通常の知覚においてすら、現実を見ることができてない。夢を見ているのと同じ。現実の知覚も、非現実の夢も、「実在」に触れていないという点で同じ。

 

「だから夢なんだよ現実は」と来るのが上智大学の問題。知覚像の現実性が保証されていない以上、夢と同じじゃんと。知覚像と世界のズレにつけこんでくる。

さらに考えられるのは、知覚像を操作しさえすれば、現実"感"を感じるのだから、今私たちが感じている現実感だって、どこぞの誰かが脳をいじくりまわして、知覚像が操作された結果であるという可能性が捨てきれないではないか、という疑いが生じる。

つまり、現実とは操作された知覚像である、と。じつは私たちの脳は培養槽に浸けられていて、高度な知性をもった生物たちが、その脳をいじくりまわして知覚像を見せている。現実とは培養槽の脳の見る夢である。

現実というのは、ほんとに夢かもしれない。培養槽の脳の夢かもしれない。胡蝶の夢であるかもしれない。マトリックス状態であるかもしれない。高次元空間に存在する高度な知性を持ったハツカネズミたちの作ったスーパーコンピュータが弾き出した42という数字の3次元空間への射影であるかもしれない。

 

そういうわけで、私がもしこの問題に答えるのだとしたら、問題設定の背景にある伝統的な身心二元論の認識構制と、その構制内部の結像機構に生じる知覚像について言及する。

 

 

 

 

知覚像の記述は、新哲学入門の認識論を参考にした。でもこの本、難しいよ。哲学入門とか書いてるのに、全然入門じゃない。

 

 

▼2018年11月12日追記

様相実在論の反事実的条件法という有名な思考実験で、現実は夢ではないと論証できるのがわかった。戸田山の「知識の哲学」の第7章。

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

 

 

ニート生活1日目 独房

今日からニートだけど、とくに感慨がない。
ニート生活中は、独房の中でひたすら本を読むように、対象に集中して過ごしたい。
いわゆる晴耕雨読と呼ばれる閑雅な生活というよりも、プロニートの生活に近い。

 

プロニートというのは身体は資本という理念で厳しく自己統制するニートのことである。身体を鍛えて、趣味に没頭して、快適さを希求して、家族に寄生して、社会にフリーライドして迷惑をかけるプロ。内面生活をひたすら磨いて、没交流生活の中で未来をすり減らしていく。自分の未来など殺活自在の些事であり、もはや狂気的であることによってしか正気を保てない。

 

狂気でも正気でも、「ひたすら読む」という姿勢だけは変えずにいきたい。