星の動く音がうるさい

ニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどい

デカルトの方法的懐疑は失敗してると思う

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大学3年生のときに、必修科目の授業を放棄して文学部の哲学講義に潜り込んでたことがあった。

哲学史の授業は、たいてい古代ギリシャから始まるか、中世のデカルトから始まるんだけど、そのときの授業はデカルトからだった。

 

「まゆつばかと思われるかもしれないけど…」「馬脚をあらわすことは明らかなんですが…」って、先生がいつも申し訳なさそうに講義してて、「先生!そんなの気にしなくても大丈夫だよーー!」って言いたくなるくらい、知的謙抑がすごかった。

「延長」概念でキュンとした話

これ私だけかもしれないけど、デカルトの「延長」概念を聞いたときに、これこれ!こういうのがしたかったんだよー!哲学到来!始まった!って思ったよ。一人で。

 

この世界を見渡してみたときに、目の前に机があって、私には心がある。
机は見えるのに、心は見えない。

 

机は分子の集合体でできてるけど、心はどういう風にできてるんだろう、心の本質は何だろう、それがないと心が成立できないようなものって何だろう、って考えてみたときに、デカルトは、思惟、って答える。
「おーーー、これはわかる気がするな!心の本質は、思惟。心の核みたいなものは、思惟だよな、うん」って思った。

 

それに対して、じゃあ物体の本質は何だろう、それがないと物体が成立できないようなものって何だろうって考えてみたときに、デカルトは、延長、って答える。
「え、延長!?は?言いたいことわかるような、わからないような、のどの奥がむずむずするんだけど、確かに、机の中の分子の結合形態を考えてみると、その一箇所の空間に分子が居座って、他の分子を押しのけているわけだから、その一箇所には分子が拡がっているってことだから、延長って言ってもいいかもしれない!」

 

っていう感じで、ふつうは物質の本質は原子とか分子って答えたくなるところで、延長とかいう抽象概念で説明することができてるから、絶妙な言葉で表現してるなって思った。これが哲学なんだなあって、思った記憶がある。

 

ここでは「本質」って言ったけど、デカルトは「属性」って言葉を使っていて、そのときは気づかなかったけど、属性とか実体とかいう対概念を使えば、色々と便利なことがわかった。
それとこの論証過程は、私が勝手にわかりやすいように言い換えてみただけだから、厳密な順番とは違うし、デカルトは原子を否定してるので正確な表現ではない。

デカルトの方法的懐疑のまとめ

デカルトの方法的懐疑を簡潔にまとめてみる。

もし私が夢の中にいたり、悪魔によって現実にはないものを見せられたりして、欺かれているのだとしても、欺くには欺かれる対象がいるのだから、欺かれている対象であるところの私は存在する。
何かを欺かれたり、疑っている、つまり何かを思っているかぎりにおいて、私は存在する。

世界の全てのものを疑ってみても、そうして疑っている限りにおいては、私は存在するけど、1秒前の私は、悪魔によって勝手に記憶を植えつけられて仮構された私なのかもしれないから、今この瞬間疑っている私しかいないんだよ、と、ほとんど情報量0の事実にたどり着いて、この事実だけは信頼できる確固とした存在なのだと主張した。

 

デカルトの推論を、もうちょっと詳しく、まとめてみる↓

 

遠くの人が近づいたら、じつは人形だったということがあるように、遠いものに関する知覚は信頼できない。

逆に言えば、近い知覚は信頼できる

近い事物を知覚できていると思っても、それは夢かもしれないじゃん

夢の中であったとしても、知覚に関係なく独立して存在する幾何学的法則は信頼できるでしょ

いやいや、2+3=、と計算しようとしたまさにその瞬間、悪魔によって答えをすりかえられているのかもしれない。そして、そのすりかえることによって、矛盾のでないように、全世界の事象を統一的法則にしたがって整理しなおしてるのかもしれない

そういうふうに欺かれているのだとしても、欺かれている私はいる、はい論破

デカルトの基礎付け主義における循環論法

ところで、疑っているときには疑っている私がいる、とデカルトが言うとき、それをかなり真実味のある確実なものとして、彼は捉えているし、まあたしかにそうだよなと思う。
さらにここで彼は、それは「明晰判明な認知」ができている状態だという(この言ってる意味をつかむのが私は難しかった)。
ここから暴走が始まるんだよな。
明晰判明に認知できるもの(私の存在)が真実だとわかったのだから、明晰判明に認知できるものは、全て、真実であると、言い始める。

 

ここでただちに反論できるのは、「全て」っていうのは言いすぎでしょって。
自分の心の状態を明晰判明に認知できるからといって、一足飛びに、自分以外の事実も明晰判明に認知できるとはいえない。

 

とにかく、ここでは黙って見過ごすとして、このあとすぐにデカルトは神の存在証明をするんだけど、そのときにこの明晰判明の認知という武器を使ってくる。


これも見過ごすとして、問題なのはこのあとに、明晰判明の認知の正しさをダメ押しで証明しようとして、神の存在を引っ張ってくるから、循環論法になってるってこと。

その理屈がおもしろい。

 

デカルト曰く、結果は原因より多くなることはできない。なぜなら、もし結果の大きさが原因より大きいというのであれば、原因に多くの原因外のものが付け加わらないと、結果の大きさと同じ大きさにはなれないので、多くのものは無から生じたことになる。無から何も生じないということは、明晰判明の認知によって明らかである。したがって、原因のほうが常に大きくないといけない。

原因>結果、はいいけど、原因<結果、はダメ。原因はとにかくパワーをもつというのが、この時代の考え方だった。第一原因論の文脈なんだろうけど。

 

つまり、「結果の実在性は、原因のうちにそれ以上の大きさで含まれてないといけない」という因果原理が採用される。

 

ところで上記では、疑ってる私の存在だけは確かだよと証明する推論過程で、外部世界の知識一般を全て否定して、その論理的帰結として、疑ってる私の確実性が証明されたのだけど、いやいやちょっと待てよと。外部世界の知識一般を否定するということは、神や因果原理も否定してるよねと。

それなのにデカルトは、神の存在を証明するときに、「因果原理」を使ってしまってる。

要するに、自分を欺いてくる悪魔も、神も、因果原理も、何も証明できていない。疑ってる私だけは確かにある。だけど情報量が0。

 

このデカルトの立場は、「知識の内在主義における基礎付け主義」に分類される。これだけは確かだろうという確固とした1つのものを見つけ出してきて、あとはそこから全て演繹しようという態度のこと。

 

 

『知識の哲学』p.109-130参照。この本のおかげで、少しだけ分析哲学になじめた。

 

ここからは私の考えることだから、間違ってる可能性がかなり高いと思う。

 

実はこの世界の実相は、培養液の中に浸けられている脳の見る夢で、高度な知性をもつハツカネズミたちによって、全ての培養槽の脳状態が管理されているとする。デカルトによれば、疑っているかぎり、私は存在する、ということだけど、ネズミが私の脳をいじって、「何かを疑っているときの脳状態」を正確に再現したとき、私はたしかに何かを疑っているけど、それは「疑わさせられている」。
したがって、私の言葉で正確にデカルトの言葉を言い換えると、疑っているかぎり、あるいは、疑わさせられているかぎり、私は存在する、になると思う。欺かれている、と、疑わさせられている、というのは似てるけど違うよね。

毎日3時間、ぶっ通しで読書するとどうなるか

今やってること

パソコンとスマホを排除して、毎日3時間机から離れずに、「最優先」の本を読書する

 

 

結果(導入して一ヶ月目)

死にたくなくなる。「今日も目標を達成できなかった。何やってんだろう」と寝る前に布団の中で死にたくなる現象が減った。
・4日以内に、読みたい本が片づく。
・実験7日目までは、読んでいる途中で注意が散漫になって、1時間に3ページすら進まないことがあったのに、8日目からは、なぜか注意の持続力がついて読むスピードが上がった。
1日10時間読書できるようになった。1日10時間以上の読書ができたのは、人生では4日連続が限界だったのに、導入した直後12日連続でできたので、読書時間の総量を押し上げる波及効果があった。


先行者

そもそも3時間主義を開拓したのは、この方。
平日3時間ぶっ通しで文章を書くという習慣を導入した結果、導入前には3分作業して10分インターネットに没頭という状況だったのが、導入後には1週間あたりの生産性が上がったとのこと。なぜか全体の生産性が上がるという点で、私と同じ現象が起きてる。

 

先行者

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また歴史上の偉人にも、3時間ぶっ通しで活動する人が、異常に多いとわかった。
彼らの習慣は多様な一方で(例えば、朝起きた後に鍋や釜に向かって「おはよう」とあいさつしたり、仕事の気分を盛り上げるために手紙を一通か二通燃やしたり、仕事部屋の引き出しに腐ったリンゴをたくさん入れたりして、皆バラバラだけど)、いったん机の前につくと、3時間ぶっ通しで書くというのは、驚くほど共通している。
4時間の人や5時間の人もいるけど、やはり3時間が多い。
3時間以下はあまりいない。
一方、マルクスのように、開館から閉館まで一日中図書館にいて革命闘争の研究に人生を捧げるというような激烈な書き手もいるけど、若死が多い。
「3時間」という作業量は、気分よく継続する一つのポイントだと思った。

 

細かいルール

できるだけ、意志の力に頼らない方法を追求する過程で、いくつかの細かなルールが習慣化してきた。

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  • 机に置くのは、今から読む最優先の一冊だけ。手始めにどうでもいい軽めの本から読もうしたりせずに、初っ端から核心に入らないと後悔する。机の上からは本以外のもの、とくにパソコンとスマホを排除して、視覚ストレスを消すことによって最優先事項を優先する空間ができる。一冊とだけ向き合う。もうこれ禅だよ。そこに居さえすれば義務を果たし続けている状態であるという意味不明な確変状態が生じる。スマホが視界内に存在するだけで、ドーパミンが分泌されるという研究結果あり。このときの写真では右上にメモ用紙が散らばってるけど、このあと机にひっかけるハンギングボックスを買って、机の下に置けるようにしたよ。f:id:jougetu:20160304180031j:plain

  • メモはパソコンで書かない。メモはメモ用紙に書く。ポメラでもいい。手の届く位置にパソコンとスマホがあると必ず死ぬ。意志でどうにかできる問題ではないので、物理的に排除する。3箇条のなかで一番つらいのは、3時間座ってることではなくて、パソコンとスマホを引き離すこの作業。パソコンを引き離して机の前に座れた時点で、読書の99%が完了する。スマホは途中で解約して除去した。
  • 3日間、同じ本を読まない。ふつうに飽きる。
  • 物理で殴る。最大の効果があったのは、このクッション。腰を沈めると、押しのけられたビーズがひじのあたりまで盛り上がってくるので、読書するときにはひじを乗せたまま快適にできる。休憩がいらないって感覚をどう伝えたらいいのかわからないけど、私はこれさえあれば、無限に読書できると確信した。事実、姿勢を変えたりはするけど、10時間ぶっ続けで読書しても全く疲れない。特に、背中とクッションのあいだに布団をはさんで調整してやると、まるで快楽椅子に座ってるように苦痛がない状態になる。その布団の端っこを、お腹の上に巻くようにしてもってきて、その上に本を置いてやれば、真正面の目線に合致するから、首を傾けたり、眼球を動かしてやる必要がない。普通だったら、首のうしろが疲れてきたり、腰がこってきたりするのに、全く微動だにせずに読書するマシーンになってしまった。これはこの記事で一番伝えたかった。というのも、何日間もいろいろ調べまくって、クッションを探してたんだけど、読書に適しているかどうかについては、具体的な感想がないんだよね。だから店頭に行って、全部座りながらやっとのことで選んだ。
ビーズクッション アースカラーキューブチェア Lサイズ ネイビー PCM-6512T

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  • 石のように、指一本動かさずに読む。7日目にこれを発見して以来、読書中の集中力が劇的に向上した。本を開いて字面を追っているのに、どうしても内容が入ってこないときは、絶対に動かない。顔や指も動かさない。身体を止めて、目だけ動かして本を読んでると、ある時点でカチッと歯車が噛んで、内容が入ってくるということがわかった。ただし、動かずに静止していると、身体には苦痛が生じるようで、なぜか軽く息苦しくなる。胸の辺りが苦しくなって呼吸が浅くなる。苦痛をともなってるから信頼できる。集中できないときには、この読み方を取り入れると、うまく流れに乗れる。何度も試してみたけど、私には再現性があった。意志の力に頼らずに、身体の単純な拘束によって、集中力を取り戻せた。「時間をかけて断続的に、具体的に苦痛を与えることによって、身体は初めてそのメッセージを認識し理解する」と村上春樹が言っていたけど、「断続的」というのがここでは大切で、例えば、「この1ページ読み終わるまで、静止する」という風に区切りを設けてやらないと疲れる。

  • 息を止めて読む。上記と併用、効果同様。
  • 「読書しなくちゃ」と思ったときは、絶対に動かない。私がこうしているあいだにも、みんなの人生は進んでるんだろうな、何やってんだろと思うけど、焦れば焦るほど、どうでもいい作業に現実逃避してしまう。そういうときは、15秒動かない。パソコンをしてるのなら、マウスを持ったまま、身体を停止させて、まつげも動かさない。そうすると、不思議とやる気が出てくる。動きたくなる。静止してから3秒くらいしたら、すでにやる気が出てくる。動かないというのは、じつは不必要事項を排除し続けているという形で動いている。
  •  音楽は聴かない。これはほんとに大事。村上春樹も音楽は聴かないとのこと。
  • 生活のあいまに、歩いて、脳の海馬からシータ波を出す。一人暮らしでも、スペースを空けて、部屋をぐるぐる歩く。歩きながら携帯を見たり、単語帳を暗記したりせずに、ただ黙々と歩く。少しでも歩くことができれば、脳の海馬からシータ波が出て瞑想状態になる。この時点で読書のやる気が出ることもあるけど、まだ足りないなら、20分でベータエンドルフィン、25分でドーパミン、40分でセロトニンが出るまで歩く。やる気が出れば、パソコンを排除できる。すでに立ち上がっている状況にあるので、そのままパソコンを別の場所に持ち運べばいい。45分歩いてもダメだったら、あきらめる。妄想したり、音楽を聴いたりしながらでもいいから歩いていると、ときどき、パソコンの排除について思いが及ぶので、そういうわずかな芽を大切に育てていく。私は高校生のときに、シータ波優位の脳状態が暗記作業に適しているとニュースで聞いて以来、歩きながら英文の音読をしたり、社会の語句暗記をしたりしてきて、最近のニュースでも禅宗のお坊さんたちが寺の中で歩きながらお経を読んでたから、ぐるぐる歩くときには何か勉強をしながらでないと罪悪感を感じてしまうんだけど、でも、歩くだけでも着実に事態は改善している。読書に向かって準備が整っていくんだから。スタートアップの時間が必要。読書したくないという欲求をすぐに変えることはできないので、歩きたいという欲求にずらす。欲望の中心点をずらすのが自由拡大の原則。代わりに掃除をするのもいいかもしれない。掃除をすると側坐核が刺激されるから、やる気が出る。テスト勉強のときには、掃除をしたくなったほうがいい。ものを一つ片付けるという成功体験を積み続けることで、脳の報酬系回路が働いてくる。

僕はよく、何をしたらいいかわからないっていう学生には、「キッチンの掃除をするといいよ」っていうんですよね。

これ、意外に本質的だと思うんです。つまり、目に見えて成果がすぐに現れることを繰り返しやっていると、世界に自分が関わっている感じが出てくるんですよ。俺の人生意味がある、みたいな。特にウツの時とかいいんですよね。三角コーナーの掃除とか。そうすると、「大丈夫、俺、ちゃんと世界に意味を与えてる」みたいなふうになっていって。徐々に徐々に、世界にいろんな意味が結ばれてくるっていうことがあったりする。「やりたいこと」が分からなくて、ウツで、っていう方がいれば、だまされたと思って試してみてください(笑)

これが自由になるための実存的条件。もう1回いうと、欲望の中心点を結ぶということ。そしてそれがつら過ぎたら、それを変えるということ。これは自由の大きな条件かなというふうに思います。

【対談】竹田青嗣×苫野一徳⑦「やりたいこと」の見つけ方

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  • 二冊以上、机に置いてもいい。ほんとうは冒頭のように机上の一冊というのが理想だけど、実験の結果、数冊の日をたまに組み入れても、気分よく持続できるとわかった。上の写真のように、認識論という分野で、同じ程度の負荷の数冊に絞って、何日かやってみた。脳にとっては、色んな本を組み合わせるほうが飽きないからいいと聞いたことがある。たしかに、本を切り替えるときには、読んでいた本の束縛からいったん解放される爽快感が出るので、切り替え自体の快感は得られた。しかし、どっちみち切り替えた本も、もとの本と同じ程度の負荷なので、すぐにもと通りのつらさになる。さらに、本を切り替えるタイミングを見極めて決断しないといけないという判断コストもかかる。それに対して、一冊に絞ってそれだけをガツンと進めるのは、進んでるのが目に見えてわかるのでやる気がでる。つまり、切り替え自体の爽快感を得るか、一冊が進む爽快感を得るか、の二択。集中力が切れやすい日は、数冊でやるとうまくいく気がする。切り替えるタイミングは、20分以上過ぎたときのほうがいい。
  • トイレは行ってもいい。

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  • コーヒーやお茶は入れ放題。右端が入れ放題コーナー。机の下も服の入れ放題コーナー。
  • 読書を終わるときは、「いいなあ」と思う一文を見つけて、浸りながら本を閉じる。とりえさんに見習った。

一つ、自然と身に付いた区切り方がある。 「いいなあ」と感じた言葉や仕草、描写が出てきたら区切りをつけ、本を閉じる。 そしてその「いいなあ」を、明日続きを読むまでに、自分の中に取り込む努力をする。 丸一日かけて、よく咀嚼して、ためしに真似して使ってみるなどして遊び、味わい尽くし、少しでも吸収する。

ちびちび読書法 ~小説 - とりえかんざし

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  • 社会人になったら、1時間でやる。この記事では3時間という目安を強調してしまったけど、充実感を得るには、1時間でもいいと思う。スカッとした爽快感はないけど。社会人だったときは、帰ったあとはくたくたになって、1時間すら読書できなかった(どうしてもできなかった)ので、3時間もできるはずがない。そこで思ったのは、「適度な負荷」を感じられればいいということ。集中力の切れるタイミングには波があって私の場合は開始6分、12分、20分、35分、45分の時点によく切れるけど、それが来たときに15秒くらい受け止めて、ねっころがりたい衝動を抑えて味わってると、すっと抜けていく感覚があるんだけど、たぶん、この波の負荷をある程度感じることで、逆に爽快感を感じることができてるんだと思う。1時間もあれば、4回は波がある。私としては、やっとエンジンが温まってきたなってところで切り上げるはめになるから、うずうずしたまま終わるけど、充実感はある。充実感を得られるとわかっていれば、読書する気にもなるよね。
  • 二日休んでもいい。私の場合は、三日休んでしまうと身体から習慣の「同一性」のようなものが、すっぽり抜け落ちてしまうのがわかる。休んで二日目はまだ密度が保たれてるけど、三日目に入ると炭酸が抜けてる。だから二日休むのはセーフにしてる。村上春樹の場合は「絶対的な練習量は落としても、休みは二日続けないというのが、基本的ルールだ」ということで、休むのは一日だけらしいよ。絶対に一日も休まない、という完璧主義では、かえって習慣形成が阻害されるので、休むときは休む。統計的には、身体のことについて習慣づけるには21日間必要(人によっては最大66日必要)で、そのうち1日サボってしまう日があっても全体として一貫性があればいい。

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  • 習慣が途切れてしまったときは、基本書を読む。私の基本書は、村上春樹のエッセイにしてる。小説上の人物や彼自身の、タフな姿勢の原型が、この一冊に集約されている。

こうして我慢に我慢を重ねてなんとか走り続けているうちに、75キロのあたりで何かがすうっと抜けた。そういう感覚があった。「抜ける」という以外にうまい表現を思いつけない。まるで石壁を通り抜けるみたいに、あっちの方に身体が通過してしまったのだ。いつ抜けたのか、正確な時点は思い出せない。でも気がついたときには、僕は既に向こう側に移行していた。それで「ああ、これで抜けたんだな」とそのまま納得した。理屈や経過についてはよくわからないものの、とにかく「抜けた」という事実だけは納得できた。

それからあとは、とくに何も考える必要はなかった。もっと正確に言えば、「何も考えないようにしよう」と意識的に努める必要がなくなった、ということだ。生じた流れを、自動的にたどり続けるだけでいい。そこに身を任せれば、何かの力が僕を自然に前に押し出してくれた。

こんなに長い時間走り続けているのだから、肉体的に苦しくないわけがない。でもそのころには、疲れているということは、僕にとってそれほど重大な問題ではなくなってしまっていた。疲弊していることが、いわば「常態」として僕の中に自然に受け入れられていった、ということかもしれない。

p152-153「走るときについて語るときに僕の語ること」村上春樹

現実が夢でないことを証明せよ

今朝、この記事をtwitterで見た。

上智大学(大学院?)の哲学科の入試問題で、「現実が夢でないことを証明せよ」という問題が出たらしい。

 

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まず考えられるのは、「夢は自分で操作できない」というコントロール不能性。

これが前提になると思う。
夢の中にいるときは、「今、夢の中にいるな」って思えないし、思い通りに作りかえたりできないという前提。夢の中でどうあがこうが、現実だと思ってしまうから、深い夢はこわい。もちろん「今、夢の中にいるな」ってわかるような浅い夢(明晰夢)はあるけど、ここで問われてるのは、現実の現実性と対置するところの虚構性を持っている夢、つまり操作不能な深い夢だというのが出題者の意図だと思う。だから、浅い夢と深い夢を、まず分けないといけないかな。

 

そうするとこれは、知覚像の問題だな、と思った。

 

要はこの上智大学の問題は、われわれの知覚像と世界のずれを指して、「君たちが見ている知覚像は現実を反映していないんだから夢を見ているのと同じじゃないか」と言わんとしてる問題だと思う。

どういうことかというと、そもそも我々一般人の99パーセントは素朴実在論者であって、客観的実在がまず外に厳然として存在すると考える。自分が目をつむっても、寝ている間でも、外には世界が存在すると考える。その客観的実在であるところの世界の側から、光の波長なり、アンモニア分子なりの刺激が、自分の感覚器官に伝来してきて、世界を認識することができる。
例えば、机の上にあるリンゴにぶつかって反射した6000オングストロームの光の波長が、目の網膜に入って神経回路を起動して、もろもろの化学作用が脳みそまで空間的に連続して、一定の脳状態を引き起こして、赤いリンゴの知覚像が生じる。
さらに、リンゴを目では確認してるけど意識を集中させてないから見えなかった、という、見えども見えずというウッカリミスがあるように、「リンゴがある!」と思うには、リンゴの知覚像があるだけではダメで、さらにリンゴの知覚像を意味理解するという意識作用がいる。スポットライトをあてる、みたいな。
つまり、意識の対象としての、客観的事物が外にあって、それに対して知覚像という意識内容が生じて、その知覚像から意味理解を得るという意識作用がある、この3つの「意識対象、意識内容、意識作用」という三項図式のカメラモデルが素朴実在論に前提されている。

 

そうすると、ここで問題になるのは、知覚像は、生の世界に触れてない、幻影だという問題。

リンゴを見るときに、われわれは「知覚像越し」でしか見ることができない。邪魔だよ、知覚像が。あいだに入ってきてんじゃないよ、と思う。生の現実にふれることができない。知覚像をひっぺがしてみたら(そんなことできないけど)、ほんとはリンゴはめちゃくちゃなキモイ姿をしてるかもしれなくて、アメーバがリンゴをリンゴとして認識できないように、われわれの知覚も限定されている。われわれはリンゴを見ながらリンゴを見てない、知覚像しか見てない。カントのいう物自体と現象の関係とか、プラトンのいうイデアと現実の関係(といってもプラトンの場合は、心の目でイデアを見れるんだったかな)に似てる。

 

つまり、われわれは幻影を見ている。全ては虚妄であると。もう仏教だよこれ。

通常の知覚においてすら、現実を見ることができてない。夢を見ているのと同じ。現実の知覚も、非現実の夢も、「実在」に触れていないという点で同じ。

 

「だから夢なんだよ現実は」と来るのが上智大学の問題。知覚像の現実性が保証されていない以上、夢と同じじゃんと。知覚像と世界のズレにつけこんでくる。

さらに考えられるのは、知覚像を操作しさえすれば、現実"感"を感じるのだから、今私たちが感じている現実感だって、どこぞの誰かが脳をいじくりまわして、知覚像が操作された結果であるという可能性が捨てきれないではないか、という疑いが生じる。

つまり、現実とは操作された知覚像である、と。じつは私たちの脳は培養槽に浸けられていて、高度な知性をもった生物たちが、その脳をいじくりまわして知覚像を見せている。現実とは培養槽の脳の見る夢である。

現実というのは、ほんとに夢かもしれない。培養槽の脳の夢かもしれない。胡蝶の夢であるかもしれない。マトリックス状態であるかもしれない。高次元空間に存在する高度な知性を持ったハツカネズミたちの作ったスーパーコンピュータが弾き出した42という数字の3次元空間への射影であるかもしれない。

 

そういうわけで、私がもしこの問題に答えるのだとしたら、問題設定の背景にある伝統的な身心二元論の認識構制と、その構制内部の結像機構に生じる知覚像について言及する。

 

 

 

 

知覚像の記述は、新哲学入門の認識論を参考にした。でもこの本、難しいよ。哲学入門とか書いてるのに、全然入門じゃない。

 

 

▼2018年11月12日追記

様相実在論の反事実的条件法という有名な思考実験で、現実は夢ではないと論証できるのがわかった。戸田山の「知識の哲学」の第7章。

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)