星の動く音がうるさい

2016年からニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどい

毎日3時間、ぶっ通しで読書する

動機

村上春樹が、毎朝4時に起きて、原稿用紙10枚書くまで机から離れないようにしているのを見習って、私も軍隊並みの管理で対象に集中したいなと思った。勉強に集中できない、読書に集中できないのが、中学時代からの悩み。読書に集中できる方法や場所をはやく見つけないと、今日も何もできなかったなって寝る前に死にたくなる。


今やってること

パソコンを排除して、毎日3時間机から離れずに、「最優先」の本だけ読書する

 

3箇条

1.「最優先」の本だけ読む
2.3時間ずっと机から離れない
3.半径2メートル内からパソコンを排除する

 

この中の一箇条でも抜けると有効性を失う。

 

結果(導入して一ヶ月目)

・読書の習慣ができた。
死にたくなくなる。「あの人は今ごろ英語を勉強してるのに、自分は今日も何もしなかったな」と死にたくなる現象が減った。
・4日以内に、読みたい本が片づく。
なぜか集中力があがる。実験7日目までは妄想や眠気のせいで集中力が続かず、1時間に1ページすら進まない異常事態もあったけど、8日目からは、妄想からの復帰率があがって読むスピードが上がった。
1日10時間読書できるようになった。1日で10時間以上の読書ができたのは、人生では4日連続が限界だったのに、導入した直後12日連続でできたので、読書時間の総量を押し上げる波及効果があった。


先行者

3時間主義を開拓したのは、この方。
平日3時間、文章を書いている。
導入前は3分作業して10分インターネットに没頭という状況だったが、導入後は1週間あたりの生産性が上がったと報告しているので、なぜか全体の生産性が上がるという点では私と同じ現象が起きてると思った。

 

先行者

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歴史上にも、3時間ぶっ通しで書く人が、異常に多いとわかった。
他の習慣は多彩な一方で(例えば、朝起きた後に鍋や釜に向かって「おはよう」とあいさつしたり、仕事の気分を盛り上げるために手紙を一通か二通燃やしたり、仕事部屋の引き出しに腐ったリンゴをたくさん入れたりして、皆バラバラだけど)、しかし、いったん机の前につくと、3時間ぶっ通しで書くというのは、驚くほど共通している。
4時間の人や5時間の人もいるけど、やはり3時間が多い。
3時間以下はあまりいない。
一方、マルクスのように、開館から閉館まで一日中図書館にいて革命闘争の研究に人生を捧げるというような苛烈な書き手もいるけど、若死が多い。
「3時間」という作業量は、気分よく継続する一つのポイントだと思った。

 

任意のルール

できるだけ、意志の力に頼らない方法を追求した。

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  • 一冊だけ、机に置く。半径2メートル内からパソコンを排除して、視覚ストレスを消す。最優先事項を優先する空間ができる。そこに居さえすれば義務を果たし続けている状態であるという意味不明な状況が生じる。f:id:jougetu:20160304180031j:plain

  • メモは、パソコンで書かない。メモ用紙に書く。ポメラでもいい。手の届く位置にパソコンがあると必ず死ぬ。意志でどうにかできる問題ではないので、物理的に排除する。3箇条のなかで一番つらいのは、3時間座ってることではなくて、パソコンを引き離すこの作業。パソコンを引き離して机の前に座れた時点で、読書の99%が完了する。携帯は廃止した。
  • 3日間、同じ本を読まない。飽きる。
  • 物理で殴る。最大の効果があったのは、このクッション。腰を沈めると、押しのけられたビーズがひじのあたりまで盛り上がってくるので、読書するときにはひじを乗せたまま快適にできる。休憩がいらないって感覚をどう伝えたらいいのかわからないけど、私はこれさえあれば、無限に読書できると確信した。事実、姿勢を変えたりはするけど、10時間ぶっ続けで読書しても全く疲れない。特に、背中とクッションのあいだに布団をはさんで調整してやると、まるで快楽椅子に座ってるように苦痛がない状態になる。その布団の端っこを、お腹の上に巻くようにしてもってきて、その上に本を置いてやれば、真正面の目線に合致するから、首を傾けたり、眼球を動かしてやる必要がない。普通だったら、首のうしろが疲れてきたり、腰がこってきたりするのに、全く微動だにせずに読書するマシーンになってしまった。これはこの記事で一番伝えたかった。というのも、何日間もいろいろ調べまくって、クッションを探してたんだけど、読書に適しているかどうかについては、具体的な感想がないんだよね。だから店頭に行って、全部座りながらやっとのことで選んだ。
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  • 石のように、指一本動かさずに読む。7日目にこれを発見して以来、読書中の集中力が大幅に向上した。本を開いて字面を追っているのに、どうしても内容が入ってこないときは、絶対に動かない。顔や指も動かさない。身体を止めて、目だけ動かして本を読んでると、ある時点でカチッと歯車が噛んで、内容が入ってくるということがわかった。ただし、動かずに静止していると、身体には苦痛が生じるようで、なぜか軽く息苦しくなる。胸の辺りが苦しくなって呼吸が浅くなる。苦痛をともなってるから信頼できる。集中できないときには、この読み方を取り入れると、うまく流れに乗れる。何度も試してみたけど、私には再現性があった。意志の力に頼らずに、身体の単純な拘束によって、集中力を取り戻せた。「時間をかけて断続的に、具体的に苦痛を与えることによって、身体は初めてそのメッセージを認識し理解する」と村上春樹が言っていたけど、「断続的」というのがここでは大切で、例えば、「この1ページ読み終わるまで、静止する」という風に区切りを設けてやらないと疲れる。

  • 息を止めて読む。上記と併用、効果同様。
  • 「読書しなくちゃ」と思ったときは、絶対に動かない。私がこうしているあいだにも、あの人は今ごろハイデガーを読んじゃったりしてるんだろうなって思うと、こんちくしょーと思うけど、焦れば焦るほど、どうでもいい作業に現実逃避してしまう。そういうときは、15秒動かない。パソコンをしてるのなら、マウスを持ったまま、身体を停止させて、まつげも動かさない。そうすると、不思議とやる気が出てくる。動きたくなる。静止してから3秒くらいしたら、すでにやる気が出てくる。動かないというのは、じつは不必要事項を排除し続けているという形で動いている。
  •  音楽は聴かない。これは三箇条に格上げになるかもしれない。村上春樹も音楽は聴かないとのこと
  • 生活のあいまに、歩いて、脳の海馬からシータ波を出す。一人暮らしでも、スペースを空けて、部屋をぐるぐる歩く。歩きながら携帯を見たり、単語帳を暗記したりせずに、ただ黙々と歩く。少しでも歩くことができれば、脳の海馬からシータ波が出て瞑想状態になる。この時点で読書のやる気が出ることもあるけど、まだ足りないなら、20分でベータエンドルフィン、25分でドーパミン、40分でセロトニンが出るまで歩く。やる気が出れば、パソコンを排除できる。すでに立ち上がっている状況にあるので、そのままパソコンを別の場所に持ち運べばいい。45分歩いてもダメだったら、あきらめる。妄想したり、音楽を聴いたりしながらでもいいから歩いていると、ときどき、パソコンの排除について思いが及ぶので、そういうわずかな芽を大切に育てていく。私は高校生のときに、シータ波優位の脳状態が暗記作業に適しているとニュースで聞いて以来、歩きながら英文の音読をしたり、社会の語句暗記をしたりしてきて、最近のニュースでも禅宗のお坊さんたちが寺の中で歩きながらお経を読んでたから、ぐるぐる歩くときには何か勉強をしながらでないと罪悪感を感じてしまうんだけど、でも、歩くだけでも着実に事態は改善している。読書に向かって準備が整っていくんだから。スタートアップの時間が必要。読書したくないという欲求をすぐに変えることはできないので、歩きたいという欲求にずらす。欲望の中心点をずらすのが自由拡大の原則。代わりに掃除をするのもいいかもしれない。掃除をすると側坐核が刺激されるから、やる気が出る。テスト勉強のときには、掃除をしたくなったほうがいい。ものを一つ片付けるという成功体験を積み続けることで、脳の報酬系回路が働いてくる。

僕はよく、何をしたらいいかわからないっていう学生には、「キッチンの掃除をするといいよ」っていうんですよね。

これ、意外に本質的だと思うんです。つまり、目に見えて成果がすぐに現れることを繰り返しやっていると、世界に自分が関わっている感じが出てくるんですよ。俺の人生意味がある、みたいな。特にウツの時とかいいんですよね。三角コーナーの掃除とか。そうすると、「大丈夫、俺、ちゃんと世界に意味を与えてる」みたいなふうになっていって。徐々に徐々に、世界にいろんな意味が結ばれてくるっていうことがあったりする。「やりたいこと」が分からなくて、ウツで、っていう方がいれば、だまされたと思って試してみてください(笑)

これが自由になるための実存的条件。もう1回いうと、欲望の中心点を結ぶということ。そしてそれがつら過ぎたら、それを変えるということ。これは自由の大きな条件かなというふうに思います。

【対談】竹田青嗣×苫野一徳⑦「やりたいこと」の見つけ方

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  • 二冊以上、机に置いてもいい。ほんとうは冒頭のように机上の一冊というのが理想だけど、実験の結果、数冊の日をたまに組み入れても、気分よく持続できるとわかった。上の写真のように、認識論という分野で、同じ程度の負荷の数冊に絞って、何日かやってみた。脳にとっては、色んな本を組み合わせるほうが飽きないからいいと聞いたことがある。たしかに、本を切り替えるときには、読んでいた本の束縛からいったん解放される爽快感が出るので、切り替え自体の快感は得られた。しかし、どっちみち切り替えた本も、もとの本と同じ程度の負荷なので、すぐにもと通りのつらさになる。さらに、本を切り替えるタイミングを見極めて決断しないといけないという判断コストもかかる。それに対して、一冊に絞ってそれだけをガツンと進めるのは、進んでるのが目に見えてわかるのでやる気がでる。つまり、切り替え自体の爽快感を得るか、一冊が進む爽快感を得るか、の二択。集中力が切れやすい日は、数冊でやるとうまくいく気がする。切り替えるタイミングは、20分以上過ぎたときのほうがいい。
  • トイレは行ってもいい。

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  • コーヒーやお茶は入れ放題。右端が入れ放題コーナー。机の下も服の入れ放題コーナー。
  • 読書を終わるときは、「いいなあ」と思う一文を見つけて、浸りながら本を閉じる。とりえさんに見習った。

一つ、自然と身に付いた区切り方がある。 「いいなあ」と感じた言葉や仕草、描写が出てきたら区切りをつけ、本を閉じる。 そしてその「いいなあ」を、明日続きを読むまでに、自分の中に取り込む努力をする。 丸一日かけて、よく咀嚼して、ためしに真似して使ってみるなどして遊び、味わい尽くし、少しでも吸収する。

ちびちび読書法 ~小説 - とりえかんざし

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  • 社会人になったら、1時間でいく。この記事では3時間という目安を強調してしまったけど、充実感を得るには、1時間でもいいと思う。スカッとした爽快感はないけど。社会人だったときは、帰ったあとはくたくたになって、1時間すら読書できなかった(どうしてもできなかった)ので、3時間もできるはずがない。そこで思ったのは、「適度な負荷」を感じられればいいということ。集中力の切れるタイミングには波があって私の場合は開始6分、12分、20分、35分、45分の時点によく切れるけど、それが来たときに15秒くらい受け止めて、ねっころがりたい衝動を抑えて味わってると、すっと抜けていく感覚があるんだけど、たぶん、この波の負荷をある程度感じることで、逆に爽快感を感じることができてるんだと思う。1時間もあれば、4回は波がある。私としては、やっとエンジンが温まってきたなってところで切り上げるはめになるから、うずうずしたまま終わるけど、充実感はある。充実感を得られるとわかっていれば、読書する気にもなるよね。
  • 二日休んでもいい。私の場合は、三日休んでしまうと身体から習慣の「同一性」のようなものが、すっぽり抜け落ちてしまうのがわかる。休んで二日目はまだ密度が保たれてるけど、三日目に入ると炭酸が抜けてる。だから二日休むのはセーフにしてる。村上春樹の場合は「絶対的な練習量は落としても、休みは二日続けないというのが、基本的ルールだ」ということで、休むのは一日だけらしいよ。絶対に一日も休まない、という完璧主義では、かえって習慣形成が阻害されるので、休むときは休む。統計的には、身体のことについて習慣づけるには21日間必要(人によっては最大66日必要)で、そのうち1日サボってしまう日があっても全体として一貫性があればいい。

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  • 習慣が途切れてしまったときは、基本書を読む。私の基本書は、村上春樹のエッセイにしてる。小説上の人物や彼自身の、タフな姿勢の原型が、この一冊に集約されている。

こうして我慢に我慢を重ねてなんとか走り続けているうちに、75キロのあたりで何かがすうっと抜けた。そういう感覚があった。「抜ける」という以外にうまい表現を思いつけない。まるで石壁を通り抜けるみたいに、あっちの方に身体が通過してしまったのだ。いつ抜けたのか、正確な時点は思い出せない。でも気がついたときには、僕は既に向こう側に移行していた。それで「ああ、これで抜けたんだな」とそのまま納得した。理屈や経過についてはよくわからないものの、とにかく「抜けた」という事実だけは納得できた。

それからあとは、とくに何も考える必要はなかった。もっと正確に言えば、「何も考えないようにしよう」と意識的に努める必要がなくなった、ということだ。生じた流れを、自動的にたどり続けるだけでいい。そこに身を任せれば、何かの力が僕を自然に前に押し出してくれた。

こんなに長い時間走り続けているのだから、肉体的に苦しくないわけがない。でもそのころには、疲れているということは、僕にとってそれほど重大な問題ではなくなってしまっていた。疲弊していることが、いわば「常態」として僕の中に自然に受け入れられていった、ということかもしれない。

p152-153「走るときについて語るときに僕の語ること」村上春樹

ニート生活176日目 死にたい気持ち

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  • 死にたい気持ちをふりはらうには、ただただ機械的に単語帳を暗記するのが一番。

 

  • 死にたいときは死にたい気持ちをずらすこと。欲望の中心をずらすこと。思考停止してやり過ごすことが大切。死にたいときは運動も瞑想も何もかもやる気が出ない。勉強もできない。現実逃避するのに忙しい。でも単語帳の暗記だけは例外。思考停止して、次から次に暗記していくことだけに集中。部屋をぐるぐる歩きながら、一語一語暗記していくだけで心が軽くなる。思考停止してがんばる。

 

  • 単語帳を暗記しているとそのあいだ気がまぎれるだけでなく、むしろ後になって心が蘇ってくるとわかった。暗記しまくった日の夜ふかふかの布団に入って目をつむると、「あ、西洋哲学史を勉強したい気持ちが戻ってきてる(*'ω'*)」といつのまにか自分が健康な精神状態に戻っていることに気がついた。

 

  • もう書くのつかれた。

 

  • 自分がブログを書くより、他人のブログを読むほうが楽しい。

 

  • 箇条書きだとブログが書きやすいと今発見。

 

  • 4月までに読んだ認識論の本を復習した。ほぼ内容を忘れていた。腹が立った。上から10冊がよかった。

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  • 1度リズムが途切れたら、3日間何も手につかなくなる。

     

  • はじめて詩を書いた。詩の書き方をしりたい。

 

  • 玄米茶による、タンニンの摂取。

 

  • 10時間の勉強が2日以上続いた場合にのみ開催できるクジ引き大会制度を、折り紙を使用して構築した。

 

  • 趣向の偏りのせいで、ライバルといえるような敵対存在が見つからないのが悩みだったけど、ニート生活176日目にして頭のネジがはずれたのか、ついに格調高雅な哲学ニートをライバルとして脳内で実体化し競い合うという狂人じみた妄想を展開するようになり、悩みが解消した。哲学を勉強するライバルとしては、雌伏して刃を研いでいるような、執念タイプが一番こわい。哲学ニートは執念タイプなので一番こわい。大学生は友人と席を並べて哲学を語り合えるし、社会人はジャズの流れるオシャレなカフェで哲学の本を読めるし、学者はお金をもらいながら哲学を研究できるけど、哲学ニートは社会で役立つ資格勉強でもしろよという声援のなかで哲学を勉強するので、そこまで追い込まれているのに哲学を勉強し続けるのは狂人の領域。哲学ニートにとっては一切の声が無声におわる。人生をあきらめて、ただただ無意味な哲学の勉強に集中するので、「社会に出てから」という発想がない。無効性に徹する純粋行動の迫力で、力をつけるおそれがあるため、哲学ニートこそがライバルにふさわしい。ライバルの哲学ニートの「彼」を脳内に召喚するときは、具体的な姿をイメージするために、額に神経を集中させて、目をつむって、頭上2メートルの地点に記号型GPSを打ち上げる。すると私の座っていた場所に「彼」が座っている鳥瞰映像が見える。座って哲学を勉強している「彼」を観察することで、「彼」がどんな本を読んでいるか、机に何冊積み重ねているか、姿勢を正して何時間勉強しているか、具体的な迫力が伝わってくるので、それに触発されて、自分のやるべきことが見えてくる。つまり頭の中に実体化しているライバルの行動を、自分がとるのである。

 

  • 退廃のすべての原因は完璧主義にある。

 

  • 起床して30分くらいは勉強のやる気が出てこない。歩きながら本を読むようにしたらうまくいった。歩くことで血流が増えて、海馬のニューロン成長を促す成長因子が2つ生成されるので、読んだ内容が記憶に残りやすい。以前は歩くことでθ波を発生させて、集中力を上げることを狙っていたけど、もはやどうでもいい。

 

  • けっこうな頻度で、ランニングするようになった。死にたい気持ちが襲ってきてからでは遅いので、今のうちにせっせと走る。ランニングによって海馬に誕生したピチピチの新生ニューロンたちが可塑性の天才児なので、ランニングしたあと28時間以内に記憶したい情報を海馬に叩きこめば、パンチされた粘土のように、長期間記憶に残りやすい。もはや肉体の鍛錬というよりも、脳の鍛錬のために走る。ピアノのうまい子どもは数学を習得するのが早いという事例があるように、ある運動によって形成された複雑な脳内ネットワークはその運動以外の学習でも使用できるので、ランニングによって汎用可能な脳のバイパスを張り巡らせることができる。いろいろ本を読んで研究した結果、週4日の中強度ジョギングをして、そのうち隔日週2日の強度ランニングをまぜることによって、新生ニューロン生成とBDNF生成・放出を効率的に促進できるとわかった。強度ランニングでは全力疾走30秒を5回はさむことで、HGHの増加と全成長因子の大量生産を促進しチートモードに突入する。ランニング終了後トマトジュースの摂取で活性酵素を除去し、バランスボールを使用した平衡運動によりBDNFを倍加する。政治的義務の形而上学的な根拠は、制度の正義性を維持し促進するという自然的義務のテーゼに集約されるが、制度からつま弾きにされたところのプロニートにあっては、精神衛生を維持し促進するの一条に全ての義務が集約されている。

 

  • いつまでたってもプロニートになれない。7月はプロニートとして胸をはれるようにがんばる☆ちゎ―――(o´ω`o)ノ゙―――ちゎ☆結果のいかんによっては、クズニートとして生きていくことにする。

 

 

文章を削るか残すか迷ったら削る

 

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同じ文章を何度も読み返して響きを確かめたり、言葉の順番を入れ替えたり、些細な表現を変更したり、そういう「とんかち仕事」が僕は根っから好きなのです。ゲラが真っ黒になり、机に並べた十本ほどのHBの鉛筆がどんどん短くなっていくのを目にすることに、大きな喜びを感じます。なぜかはわからないけれど、僕にとってはそういうことが面白くてしょうがないのです。いつまでやっていてもちっとも飽きません。
村上春樹『職業としての小説家』p.153

 

村上春樹は長編小説を書き終えたとき、「とんかち仕事」を5回以上するんだって。
1回目の「とんかち仕事」は、2ヶ月かけて原稿の頭からごりごりと大量の文章を削る作業。
2回目は風景描写を細かく書き込んだり、会話の調子を整える作業。
3回目は文章のねじを「緩ませる」部分を見定める作業。
という感じで、それぞれの見直し段階で作業内容を変えるとのこと。

このコンビネーションのもっていき方も面白いけど、この全てに共通している作業は、文章を「削る」という作業。
いい文章を書くには、削ることが一番の近道だとよく言われる。

1文字でも多く、削れば削るほど、どうしても削れない部分がきわ立ってくる。
そこで妥協せずさらに厳しく削ると、大理石から彫像が彫りだされるみたいに、文章の主題が浮き出る。
文章の主題・輪郭・中心が見えてくると、シンプルな論理構造になるので、読者にもわかりやすいし、書いている自分も考えを整理できる。

でも削ることによって文章道に悟入できると頭でわかっていても、がんばって何時間もかけて書き上げた文章を削ってしまうのは、つい躊躇してしまうのが問題。
「わざわざ削らなくても、残しておいたほうが情報量が増えるので読者のためにもなるだろう」と言い訳を考えてしまうのだけどどうすれば。
そういうときに太宰先生。

文章の中の、ここの箇所は切り捨てたらよいものか、それとも、このままのほうがよいものか、途方にくれた場合には、必ずその箇所を切り捨てなければいけない。いわんや、その箇所に何か書き加えるなど、もってのほかというべきであろう。
太宰治

迷ったら削るのが一番。

作曲家は作曲をするときに1つの音符でもそれを捨てるかどうか悩んでいるのに、なぜ文章を書く人だけは1文字を妥協できるのだろう、と最近思った。気合が足りないなと。

思い入れのある文章を削るのはもったいないけど、削ったほうが間違いなくきれいな文章になる。
削りたくないと思うほどの、思い入れのある文章は煮詰まりすぎているから、あとになったら腐っていることが多いんだよね。経験上。思い入れがあるからこそ感情が錯綜して、文章の流れがそこで滞ってしまう。文章は感情の過剰なところから腐る。肩の力をぬいてさらさらと書いた文章のほうが、あっさりとしていい文章に仕上がっていることが多い。
文章を削るのは、感情を捨てる練習。自分を捨てる練習。文章を思いきって捨てたときに、一種の爽快感があるのは、文章の神のご褒美。捨て身の境地が必要。

ところで村上春樹がある面白いことを言っていた。

僕の敬愛する作家、レイモンド・カーヴァーもそういう「とんかち仕事」が好きな作家の一人でした。彼は他の作家の言葉を引用するかたちで、こう書いています。「ひとつの短編小説を書いて、それをじっくりと読み直し、コンマをいくつか取り去り、それからもう一度読み直して、前と同じ場所にまたコンマを置くとき、その短編小説が完成したことを私は知るのだ」と。
その気持ちは僕にもとてもよくわかります。同じようなことを、僕自身何度も経験しているからです。このあたりが限度だ。これ以上書き直すと、かえってまずいことになるかもしれない、という微妙なポイントがあります。彼はコンマの出し入れを例にとって、そのポイントを的確に示唆しているわけです。(p.154)

そうそう!!!!さすが村上春樹!って思った。
これ以上削りすぎると、文章全てが瓦解していくようなポイントがあって、そこで引き返すかどうか悩む。
私だけじゃなかったんだ。

だからただ漫然と、削ろう削ろうと思っているだけでは、袋小路に入ってしまう。
削りすぎると文章が滅ぶし、削らないと文章が腐る。

 

削ることについて、今のところ私の結論は「いったん全ての文章を書ききって、最後に大きく削る」こと。


書いている途中で、いちいち上の段に行ったり下の段に戻ったりして文章を削っていると、全体の一貫したリズムが滞っていくので、いったん全て書き切ったあと最後に大ナタで刈るのがいい。一撃で。一番デカイ矛盾を切る。

文章が瓦解していく最大の原因は、文章がリズムを失ってしまうからだと思う。

ちびちび削っていると、せいぜい数行単位でのリズムにしか注意を払えないので、文章全体ではリズムを失ってしまう。だからまずは文章を書き終えることに専念して、リズムを維持しつづけないといけない。そして最後に大きく刈りこんでいく。

 

 村上春樹『職業としての小説家』参照

辰濃 和男『文章のみがき方』参照

ニート生活149日目 最近出来た習慣

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昼3時にランニングするようになった。

人から見られるのは嫌なので(といっても、すれ違う人はほとんどいないけど)、帽子とサングラスを着用して、森のなかを走る。森の奥にあるダムの橋に出ると、風が水のむこうから走ってきてそのまま顔にぶつかってくるから、それがすごく気持ちいい。1秒も途切れずに吹いてきて耳がごうごう鳴ってるので、周りに誰がいるかわからなくなるんだけど、帽子を深くかぶって目をつむって色んなこと考える。それから1時間くらい走って、最後にのんびり歩くのが好き。家に帰った後に自動車を点検するみたいに時間をかけて、筋肉と関節をマッサージするのも好き。

生活がパターン化することは今まであまりなかったのに、いつのまにか同じ時間に走るようになった。だからといって心の調子がよくなったり、体力がついたりしたわけではないけど。