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星の動く音がうるさい

2016年からニート状態。独房の中のように過ごしたい。焦燥感がひどいな

ニート生活151日目 一ヶ月毎日ブログを更新した

ニート生活

一ヶ月毎日更新した。
哲学の記事を更新するにつれて、多くの人たちは私のもとから去ってしまった。それだけの実力だった。それなのに最後まで残ってくれた人もいた。それは思いがけない人たちだった。日ごろ何も言わない人たちが残ってくれた。大切な時間を使って、定期的に見に来てくれた。
なかには自分でブログを書いている人もいて、具体的に私に何かしているわけではないんだけど、ただその人がそこにいるというだけで心の支えになる。
最低限の訪問者を獲得することさえクリアできれば、あとはわりと気楽に書けた。

ただ始めのほうはつらくて、2日目にすでに、止めたいと思った。当時twitterに書いていたけど、「血のついたぼろぼろの服をひきずりながら歩いている」ような気持ちだった。この言葉でぴったり気持ちが表現できてる。
やはり、批評の力量がないので、書けば書くほど自分の無知があらわになってきて、どれほど自分がえらそうな気持ちだったのかよくわかった。

10日目からは、自尊心が傷つくことはなくなったけど、「ああ更新しないといけないんだったあ」と無駄な時間のように思えてきた。

15日目に、批評をあきらめて、文章術のエッセイに切り替えた。
そこからは、知っていることを書くだけなのでわりと楽に書けた。

気楽に批評できるようになりたいと思って、毎日更新してきたけど、結局コツはつかめなかった。
急いだ散髪屋さんのつもりで、サクサク書きたいと意気込んでいたけど、じっさいは庭師だった。切り貼りしながら文章をつくってるので、メモ帳のなかに何個か重い石があって、それをこっちからあっちに移動させるということを繰り返すので、ほんとうに疲れた。
いっそのこと、日記を書く練習でもすればよかったかなあと思う。

6月から普通に戻る。

直接は関係ないけど、昼3時にランニングをする習慣が身についたのは嬉しかった。
朝4時に起きて、夜9時に寝るのも、だいたいパターン化してるし、生活リズムがずれても、3日くらいかけて慎重に戻すこともなぜか出来るようになった。
この堅固な制度に乗っかっていけば、ずっと遠くまでいけるんじゃないかという確信に近いものがある。いろんなものが打ち果てて、もう自分には何もないのに、それでも前に進もうとする体力みたいなものはあって、準備ができているという感じ。こういう気持ちは今まで感じたことがないと思う。

 

それでもブログを書く理由

文章のみがき方

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曲解されて批判を受けることもあれば、一生懸命書いても何ら反響のないこともあるのに、なぜまたコリずに不完全な自分を満天下に晒すのか。
書くとスッキリするからとか、意見を整理できるからというのは、ノートに書くだけでも達成できることなので、書いたものをブログで公表する理由としては、十分な説明とは言えない。

1.必要

自分の書いた文章が、誰かの役に立てたら嬉しい。
批評やエッセイで、誰かのアイデアの材料になったり、詩や日記で、誰かに楽しんでもらえたら嬉しい。
また、小説によって、何らかの価値を文壇に建設したり、論文によって、真理の探究に寄与していると嬉しい。

2.共感

自分の文章が、相手にしっかり両手で受け止められているときは嬉しい。
そして、共感「しようと」してくれることも嬉しい。簡単にわかってもらっては困るというときがあるから。「君の言いたいことはわからないけど、とにかく共感したいという気持ちだけは絶対ある」と思って、読んでくれる読者がいたら、どれだけ幸せだろう。ときには決定的な共感が存在する。苦しみ傷つき、打ちやられてきた自分を、あのときの自分を、確かに抱きしめてくれるような共感が与えられることがある。たぶんそういう人は、共感しようとして、じっと見つめつづけてくれる人から出てくると思う。

3.批判

僕は思うのだけど、読んだ人がある部分について何か指摘するとき、指摘の方向性はともかく、そこには何かしらの問題が含まれていることが多いようです。つまりその部分で小説の流れが、多かれ少なかれつっかえているということです。
村上春樹『職業としての小説家』p.148

想定してない論点や新しい気づきが、批判によって明らかにされたときは嬉しい。特に自説を開陳しながら批判されたときは嬉しい。
そして批評を書く場合は、チェックされているという緊張関係のなかでこそ文章が洗練されていくので、批判者を想定して書く。

4.理解

そうとわかりつつも表現者が表現するのをやめないのは、たまにその表現が正しく理解されるときの喜びを忘れられなかったり、あるいはそのうち正しく理解されることもあるだろうという希望を捨てられなかったりしているためにすぎない。
西部邁『知性の構造』p.234

共感されないとしても、役に立たないとしても、内容を正しく理解してもらえるだけで嬉しい。
また、実際に理解されなくても、理解「しようと」してくれる追随者がいると嬉しい。
大学のゼミのときに、K君が私の長大な文章を見て、「乗月さんの書いてること理解しようと何回も読んでみたんだけど、完全にはわかんなかったー!でも僕なりの意見を言わせてもらうと…」って言って持論を展開してくれた、あの誠実さに打たれた。

そして、これはどうしても書きたいこと。
大学の教授に、自分なりの意見をしどろもどろになりながら、それでも精一っぱい話したことがあって、そのときに「○○ってことだよね」と、一撃で概括されたときに、雷を受けたような衝撃を感じた。
たったその一言で、自分の在り方がごそっと変わったのがわかった。自分のことを理解してもらったというよりも、きっと自分はこういうことを理解したかったんだと、自分を理解した瞬間。
しかも、私の一生懸命さに配慮して、共感の気持ちから言ったというのではなくて、もはや内容の真理性にしか興味がない最高理性の裁断。的確に、数学的に理性を集中させて、こちらの論理に内在した後、論理的な高みに押し上げてくれた。

5.了解

共感してもらえなくても、理解してもらえなくても、批判に値しなくても、役に立たなくても、ただ自分の文章を見られたいということがある。
「ほー、よくわかんないけど、そういう意見もあるんだねー」と、言っている言葉がとりあえずそのまま受け止められると嬉しい。
なんとなく見てくれてるってことの有難さ。
それは決して、文章の内容に共感してるわけでもないし、これから共感しようと思って熱心に見られてるわけでもない。うすらうすら、ぼんやりと、無関心に肯定されている。
相手の話している言葉が日本語だと理解できている点では、「理解」に近いけど、その言語的意味理解というだけには還元されないような、もっと「受け止められている」感がある。かといって共感でもない。


必要
共感
批判
理解
了解
以上5つの動機が、文章ごとにそれぞれの割合で、働いていると思う。
例えば、反論したくてしたくてたまらないというときは、相手の不正性を断罪して、真実を明らかにすることを企図しているので、誰かにその不正性を「理解」してもらいたいし、私の公憤にも「共感」してもらいたいし、足らないところは「批判」されたい。そして、こいつさえ殺しておけば少しでも日本が清浄になるというやつを、現実的に追い詰めるよう周囲を使嗾する計略で書かれれば、扇動される側にとっては「必要」な情報になるし、もっと言えば、もうこっちは真実を書いているだけなんで、一瞬刃が閃くだけでいい。つまり誰にも理解されなくても、こういう意見があるんだと「了解」されるだけでいいということもある。このように状況によって、5つの動機がコンビネーションして働いてくる。

この5つに分類されない、その他の理由としては、ブログが名刺代わりになるとか、金儲けができるとか、バックアップになるとか、糾弾して相手を傷つけたいとか、羨望されたいとか、罵倒されたいとか、批評によって正義論に参加することが政治的義務になるとか、勉強時間を記録してカフェのなかの衆人環視のように自分を律したいとか、色々あると思うけど、私は上の5つ。

 

村上春樹『職業としての小説家』

西部邁『知性の構造』

ニート生活149日目 最近出来た習慣

ニート生活

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昼3時にランニングするようになった。

人から見られるのは嫌なんで(といっても、すれ違う人はほとんどいないけど)、帽子とサングラスを着用して、森のなかを走る。奥にあるダムの橋に出ると、風が水のむこうから走ってきてそのまま顔にぶつかってくるから、それがすごく気持ちいい。1秒も切れずに吹いてきて耳がごうごう言ってるので、周りに誰がいるかわからなくなるんだけど、帽子を深くかぶって目をつむって色んなこと考える。それから1時間くらい走って、最後にのんびり歩くのが好き。家に帰った後に自動車を点検するみたいに時間をかけて、筋肉と関節をマッサージするのも好き。

生活がパターン化することは今まであまりなかったのに、いつのまにか同じ時間に走るようになった。だからといって心の調子がよくなったり、体力がついたりしたわけではないけど、ただ今は続けてる。